2013年06月28日

高橋氏帰国報告会(第1回)

6月16日、かつてのサークル仲間である一時出家中の高橋氏を招いて、帰国報告会をしてもらいました。
前回も(たしか昨年)大変好評で1回の予定が3回に伸びた経緯があります。
今回も同様に3回の予定となりました。
次回第2回は7/14、第3回は8/11の予定です。
いつもながら大変興味深い内容で、安止定まで行った人同士では距離に関係なくコミュニケーションがとれるなど驚きのエピソードも。
遠くから参加の人も多いので15時で一旦報告は終わり、17時すぎまで質疑応答となりました。
私が声を掛けなければもっと長引いたかも、・・・
次回もそういう段取りになると思います。
参加してみませんか?
posted by 管理人 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強会

2010年11月21日

スマナサーラ長老福岡講演会音声配信中!

先日福岡で行われたスマナサーラ長老の講演会の音声が、
日本テーラワーダ仏教協会のblog
Theravada Online ゴータミー精舎日記』にて配信されています。
人生の出来事の受け止め方(Dhammacast)
素晴らしい内容ですので、是非お聴きください!
posted by 管理人 at 06:46| Comment(1) | TrackBack(0) | スマナサーラ長老講演会

2010年09月16日

9月12日 勉強会

9月12日の勉強会は、少童神社で行われました。

前日まで東京で用事のあったデニヤーイェ長老は、今朝の飛行機で福岡に戻り、その足で勉強会まで来てくださりました。
初参加の方の個別の相談に別室で応じられたり、勉強会でもいつものことながら本当に素晴らしい講義と質問へのお答えをしてくださいました。

午前中は慈悲の瞑想やテーラワーダ仏教における「サッダー」(信)についての御法話。
午後からは、ダンマパダ第25偈についての講義。
および、勉強会終了のあと、夕方から長老に御時間をとっていただき、質疑応答を行いました。
その質疑応答については、別途将来小冊子にまとめる予定です。

秋になり、少し涼しくなってきたとはいえ、まだ暑い中での勉強会でしたが、大変充実した勉強会でした。


[勉強会の内容]
(文中、Qは参加者の質問、Aはデニヤーイェ長老のお答えです。)


【テーラワーダ仏教における“サッダー”(信)について】

前回、朝夕に瞑想を実践しようと思いながら、ついつい日常の出来事にまぎれて続けて実践することができず、途絶えがちになってしまうけれどどうす ればいいでしょうかという質問がありました。

仏教の勉強や瞑想を続けるうえで大きな支えになるものとして、また本格的な瞑想をなかなかすることができない時にも育て続けることができるものと して、

お釈迦様は「サッダー」(saddhā、信)ということを説かれています

仏教における信(サッダー)は、単に信ずることではなく、実際にその教えを自分で実践し、その良い結果を受け取りながら高めていくという性格のも のです。

サッダーを高める努力をすれば、日々の実践で煩悩から離れることができます。
しかし、サッダーがなくなること、サッダーからこぼれ落ちることは、いけないことだとテーラワーダ仏教では説かれます。

サッダーを高めるためには、いくつかの方法があります。

たとえば、一、二か月に一度、皆さんのように集まって、瞑想の実践や仏教の話を聞くことも大きな意味があります。
初期仏教において、および今でもテーラワーダ仏教の国々では、満月の日に、そのような集まりを持っています。
このことも、自分のサッダーの力を高めることになります。

サッダーの力を高めるとは、仏法僧に対する自信を高めることです。

自分ひとりでサッダーを高める方法には、三つあります。

ひとつめは、パリッタ、つまりお経を聴くことです。

これは、瞑想の代わりにもなりますし、功徳を得ることになります。
CDやPCからお経を聴くことも、そのひとつです。

パリッタの中で、最もよく唱えられるのは、「慈経」(メッタ・スッタ)です。他にも、宝経や吉祥経などがあります。

意味が分からなくても、お経を聴くだけで功徳があると言われています。
仏典には、動物がお経を聴いて、良い力を得たという話が出てきます。

意味がわかれば、そのお経によって良い思いが生じますから、なおのこと良い功徳があります。
意味がわかるまでは、意味がわからなくてもお経を聴くことはとても良いことだし、学習する機会があって意味がわかるようになればなお一層良いとい うことです。

勉強するチャンスがあり、お経の意味もわかって読むことは、とてもサッダーを高めることになります。
これが自分ひとりでサッダーを高める方法の二つ目のことです。

三つ目の、自分ひとりの時にサッダーを高める方法は、礼拝、つまり仏法僧に礼拝することです。
仏法僧に礼拝すると、サッダーの力が高まり、心が浄まります。


サッダーは、仏教の教えを実践する第一のステップです。
瞑想ができなくても、サッダーの力を高めることができます。

礼拝すると、自分で仏法僧から功徳を得ることができます。
瞑想ができない時は、礼拝でサッダーの力を高めることができます。

仏典の中に、サッダーの力が強くなることは、心の中に柱があるようなものだというたとえがあります。
ダンマ(法)を聴くことができない地域に行っても、サッダーがあれば大丈夫だと言われます。

今世に悟りを開くことを目的として一心不乱に努力する人は、とてもサッダーの強い人です。
しかし、普通はそうではないので、さきほど述べたような集会を時折行ったり、お経を聴いたり、学んだり、礼拝をすることによって、だんだんとサッ ダーを高めていくことが大事です。

そうして、良い結果を受け取りながら、サッダーを高めてから死ぬと、その力のおかげで、悪いところには生まれ変わらず、良いところに生まれ変わる し、今生きている間から良い人生になっていくと仏典には言われています。


Q1、大乗仏教の中の、たとえば浄土真宗においては、信心はあるかないかが大事とされて、あまり信心が高まったり深まったりすることは言われない 場合があります。テーラワーダ仏教では、サッダーはより高まるし、高めていくものであって、あんまりあるかないかということは重視されないという ことなのでしょうか?

A1、お釈迦様のお言葉に「来たれ、見よ」(エーヒ・パッシコー)というお言葉があります。
たしかに、最初に来るときは、ちょっと信じていないと来ることができませんから、最初にちょっと信じていることは大事ですね。
外側から仏教を見て、ちょっと信じて、まずは来るということです。
でも、そのあとに、見て、実践して、実際に自分自身が経験を受けとめ、その中でサッダーを高めていくことが大事です。
ただ信じるだけではなく、実際に良い結果を自分が受けとめていくことでサッダーを高めることがテーラワーダ仏教では説かれます。
最初にちょっと信じることは確かに仏教に来てみるために大事なことですが、いったん来たあとは、信心があるかないかより、行う中でサッダーを強め 高めていくことが大事だと、テーラワーダ仏教においては教えられています。


Q2、お経を聴くだけで功徳があるというのは、なかなかよくわからないのですが、たとえば日本ではお葬式の時に漢文の大乗仏教のお経を棒読みし て、大半の人は意味もよくわからずにいます、あれにあまり意味があるとも思えないのですが、意味はあるのでしょうか?

A2、音楽も、人の心に影響があります。
音は、人の心を静めたり、影響を与えることがありますね。

その中でも、特にお経は人間の心に良い影響を与えるといいます。

その理由として、三つのことが挙げられます。

一つは、仏陀の言葉であるから。
仏陀は、母親が自分のたったひとりの子どもを慈しむような慈悲で、ひとりひとりの衆生を慈しんでいました。
母親のことばに、子どもは、母親の慈愛のゆえに影響を受けますね。
私たちひとりひとりをそのような慈悲で見ている仏陀の言葉であるゆえに、影響力があると言われます。

二つ目は、すべてのお経は慈悲を持っているから。
すべての生きとし生けるものが幸せになりますようにと、ただそのことを願って言われた言葉だから。

三つ目は、ひとつひとつの語句・文章が、真実の意味であるから。
どの文章や語句をひとつとっても、すべて真実のことばである。

こうした三つの要素がもともとあるから、意味がわからなくても、心が良い影響を受け取るとテーラワーダ仏教では言われています。


Q3, この三つの点は、大乗仏教の経典にもあてはまるのでしょうか?それともあてはまらないのでしょうか?

A3、大乗仏教の経典は、大きく二つに分けることができます。

@、初期仏教の教えに関係ある大乗経典
A、初期仏教の教えに関係ない大乗経典

の二つです。

このうち、@のものであれば、仏陀の言葉・慈悲・真実という三つの要素を持っていないとは言い切れません。
しかし、Aのものであれば、上記の三つの点のどれにもならない可能性があります。

自分自身がどのようなお経を読むか、唱えるかということを考え判断するときは、

・仏陀の言葉であるか
・慈悲の思いであるか
・真実であるか

という三つの観点から選択し、どれを読むか決めることです。




【ダンマパダ 第25偈 講義】

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp24-32_V2.pdf

第25偈

uṭṭhānen' appamādena saṃyamena damena ca
dīpaṃ kayirātha medhāvī yaṃ ogho nābhikīrati.

「そして、奮い立つことによって、不放逸によって、自制によって、調御によって、
智慧ある人は、(自らを)暴流が破壊できないところの洲と為すべきである。」



この第25偈は、もともとは、瞑想で努力していてなかなか悟りの目的に達することができなかった人の心の変化のために、自分の心に流されないよう にするために、お釈迦様がお説きになった偈です。

パーリ語で、”ena”の語尾の変化は、「〜によって」という意味になります。

“yaṃ”は関係代名詞で、どのような島かの説明の文となります。

パーリ語の韻文は、一行に八音、四行で三十二音の韻律があります。
この偈もそうなっていますが、これはお釈迦様が16歳までは当時の古典的な教育を受けていたために、おのずとそうなったのでしょう。
当時は、言語の力のある人のみこのように正しく文章を書くことができました。

「暴流」(“ogha“)とは、煩悩の流れ、人が足をすくわれやすい煩悩の流れのことです。
心の中から出てくる洪水のようなものです。

暴流には四つあります。

無明(avijjā)
欲(kāma)
生(bhava) 
見(diṭṭhi)

“bhava”(生)とは、煩悩から離れていない普通の人は、ずっと生き続けたい、生まれ変わってもより良い形でもっともっと生きたい、という思 いがあることを指します。

“diṭṭhi”(見)とは、さまざまな概念や強い思いのことです。

心の中の四つの思いの洪水、この四つの暴流に流されている人は、輪廻に流されてしまいます。


Q4、努力や不放逸ということも「もっと」良くなりたいと思うことだと思いますが、bhava(
生)の「もっと」という欲求とどう区別をつけたら良いのでしょうか?

A4、「もっと」という思いには、二つあります。

1、 煩悩で流されてそう思ってしまうこと。
2、 煩悩から離れて、流されないでそう思うこと

1は、真実が見えなくなってしまいます。

ですので、自分は向上・努力と思いながらも、1であるならば、真実が見えていないことになってしまいます。

煩悩に流されることから、自分を守るために、努力・不放逸・調御に励むことが、2の意味の「もっと」ということです。



Q5、25偈の文章の「自制」と「調御」の違いがよくわからないのですが、どのような違いがあるのでしょうか?

A5、日本語にすると違いがわかりにくくなってしまいますが、パーリ語の原文だとかなり意味に違いがあります。

Saṃyama (自制)とは、ある程度考えることによって、自分で思考することで、流れを変えたり整えることができること。
Dama (調御)とは、より力を入れて、コントローする必要があることです。

たとえば、24時間漫画を読みたいとは思うけれど、そう怠けていては仕事も勉強もはからどらないし、あとで大変なことになると考えてやめることが saṃyama(自制)。
一方、肥満になった時に、ただ考えるだけではだめで、食事や運動に力を入れてコントロールすること、あるいは食事もその代わりとなる何かダイエッ ト食などを工夫するなど、単に考えるだけではだめで、かなり力を入れて実行することがdama(調御)です。

あるいは、自分でお酒の弊害をよく考えて検討して、それでお酒をやめるのはsaṃyama(自制)であり、
それに対して、自分ではなかなかやめることができないので、冷蔵庫の中のビールをすべて家族に捨ててもらうとか、思い切った手段をとることが、 dama(調御)と言えるかもしれませんね。


Q6, 25偈の中の「奮起、努力」(uṭṭhāna)と「不放 逸」(appamāda)の違いは何なのでしょうか?

A6、これも、日本語だと区別がわかりにくいかもしれませんが、パーリ語のもともとの意味だと、このような違いがあります。

Uṭṭhāna (努力)とは、今よりも力を入れること、今までにないことを実現しようと努力すること。
Appmāda(不放逸)とは、今より落ちないこと、今までの状態から落ちないようにする努力、という意味です。

一日八時間働いているのを十時間にするのはuṭṭhānaであり、何があろうと八時 間を続けるのがappamādaということです。


Q7, 不放逸とは、四六時中サティ(気づき)を入れることだという説明を聞いたことがあるのですが、そういう意味もあるのでしょうか?

A7, 仏教としての意味では、サティをずっと入れていることを不放逸だととらえることは、正しい解釈です。

サティをずっと入れることによって、人は失敗をせず、落ちずに生きていくことができます。

ただ、ブッダという言葉が、もともとの言葉は「わかった人」という意味の普通の言葉だったのが、仏教においては特に「悟った人」という意味である ように、不放逸が四六時中サティを入れることだというのは、仏教的な意味においてであり、もともとの辞書の言葉には必ずしも書いていないことで しょうね。


Q8, 努力や精進を指す言葉で、ヴィリヤ(viriya)という言葉もよく仏教において使われますが、このウッターナ (uṭṭhāna)とはどういう意味の違いがあるのでしょうか?

A8, Viriyaは、邪魔なものが来ても負けない努力のことです。
Uṭṭhānaは、今までないものを始める努力、新しく努めることです。


Q9、 四暴流の中の”kāma”は、しばしば日本の大乗仏教では「愛欲」と訳されていますが、欲であって愛欲ではないので しょうか?

A10、愛欲は、kāmaの中の一つです。
Kāmaの意味はもっと大きくて、愛欲はその中で確かにもっとも強いものではありますが、愛欲よりも広い意味で使われます。
おそらく、特にkāmaの中で愛欲はもっとも強いものなので、昔の日本の人が愛欲と訳したのかもしれません。


Q11、bhavaは「有」と訳されることも多いと思うのですが。

A11、「有」という訳も正しいです。
Bhavaは、生まれること、有ることに対する執着、生存への執着、次にあることへの執着です。


Q12, 現代人の中で、死んだあとのことは信じていないけれども、自分の名前をのこしたいと思ったり、銅像や碑文を建てたがるひとがしばしばい ますが、このような欲求もbhavaの一種でしょうか?

A12、自分の名前をのこしたいと思うことも、たしかにbhavaの一種です。
しかし、良いことをして、良い名前をのこすことは、良い影響をほかの人々に与える場合もあるので、良いことである場合もあります。

ただし、たとえば、昔の仏像や仏教美術の作品には、まったく作者の名前がのこっていないことが多いです。
その人たちは、世界のためにつくっておく、人々のためにつくる、という思いしかなく、自分を入れる考えはありませんでした。

今の美術作品は、ちょっとしたものでもすべて自分の名前が入っていますね。
Bhavaが働くことが必ずしも悪いとは言えませんが、良いものを人々にのこす気持ちが大切かもしれません。


Q13, “kāma“(欲)と、渇愛を意味するTaṅhāはどう違うのでしょう か?

Kāmaは、今現在の働き、今現在心に欲が働くことです。
Taṅhāは、そのもととなるもので、心の奥に働くものです。

Taṅhāという鍋の中で、kāmaが動き出すという表現があります。



お経は、何回も読むこと、考え直すことで、より広い意味が見えてきます。
ダンマパダも、繰り返し読み、味わってください。

(以上)

(文責・あつし)
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2010年09月11日

8月29日 勉強会

8月29日の勉強会は、サンレイクかすやで行われました。
御講師はウ・コーサッラ長老で、アビダンマについて講義していただきました。
参加者は十五名ほど。
最近参加するようになられた方や、新しい参加者の方が全体の三分の一ほどおられました。
活発な質疑応答が行われ、とてもためになる勉強会でした。




『勉強会の内容』

(今回の勉強会は、講義の途中に活発な質問があり、それに沿って長老もお話してくださったので、メモも講義の途中に質疑応答を入れる形で再現しています。Qが参加者からの質問、Aがウ・コーサッラ長老のお答えです。)




【今までの復習と三つ心の流れ】


心はどういう法則で変わり、生滅し、流れていくか。

勝義諦には、
心、心所、色、涅槃、
の四つがある。

このうち、心と心所を名(ナーマ、精神)と分類し、色(ルーパ、物質)と区別する。

涅槃に入らぬ限り、心は無間に生滅し続ける。
c.f. テーラワーダ仏教では中有(死んでから次に生まれ変わるまでの一定の期間)は説かない。

心の寿命 心刹那=大刹那=3小刹那
1小刹那=生・住・滅
色法(物質)の寿命は、心刹那の17倍。

スマナサーラ長老がよく「心は光の17倍」というのは、アビダンマのこの箇所から語られている。
光は色法の中で一番早いので、心の速さが色法の17倍ならば、光の17倍だろうということです。

心には三つの流れがある。

・有分心の流れ (有分心とは、五門や意門の流れの間に走る潜在的な心の流れのこと)
・五門の流れ  (眼耳鼻舌身)
・意門の流れ  (意識)

人は、三つの流れのどれかで生きている。これらが交互に繰り返す。
生きているうちは、三つのどれかが流れている。

このうち有分心は生きている間は同じ種類の異熟心が生じ別の種類には変わらない。

Q1,有分心が変わらないとすると、瞑想で育つのは意門の流れでしょうか?

A1,そうです。瞑想をすると、意門や五門の流れの速行心において大善心が生じるのが多くなります。速行心でどういう心が生じやすいか、それが修行によって変わり、心がどれだけ成長しているかということです。単に刺激に流されるだけでなく、善心が生じやすくなる。意門や五門の速行心の流れを良くする、質を高めるのが瞑想・修行ということです。

速行心で業をつくっています。

Q2,心は物質でしょうか?

A2,心は物質ではありません。非物質、あえていえば非物質のエネルギーです。

しかし、肉体に依存して生じています。テーラワーダは心と物質の二元論です。唯物論でもないし、唯心論でもないということです。



【意門路、如理作意について】


意門路には、明瞭か不明瞭か、二つの違いがある。

Q3, 意門路の明瞭・不明瞭の違いは何よって生じるのでしょうか?

A3, 主として心の状態が清浄であるかどうかによって違いますが、速行心に善心が生じるかどうかは意門引転心(確定心)が強いかどうか、つまり如理作意があるかどうかによります。
如理作意への努力の違い、それによる習慣の違いが確定心の強さ・作意作用の違いを生じさせます。

如理作意(ヨーニソー・マナンシカーラー)とは、瞬時に道理にかなった・仏法にかなった判断ができることで、その反対が非理作意(アヨーニソー・マナンシカーラ)で道理にかなわない仏法にかなわない判断です。

いわば、

如理作意 良い受けとめ方  その反応に続く心に良い心が生じる
非理作意 悪い受けとめ方  その反応に続く心に悪い心が生じる

ということです。

たとえば、如理作意が生じれば、失礼なことを言われても怒りが生じない。非理作意が生じると、失礼なことにはすぐ怒るということになります。

受け入れ方の違いのことです。

人から何か指摘されて、相手が正しいとわかっているけれどやっぱり腹が立つ、などということがしばしば日常生活にはありますが、その時は本当にはわかっていない心も瞬間に交じって生じているから腹が立つ、つまり非理作意が生じている、と考えられます。


Q4,如理作意を育てるためには、どうすればいいのでしょうか?

A4,瞑想や仏教を学ぶことですね。
もともと性格が良くて如理作意が生じやすい人が時折いますが、そういう人は過去世においてそうした努力や修行をしていたと考えられます。



【禅定について】


禅定の心

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → 種姓 → 禅定 → 有分心

このうち、遍作から種姓までを近行定、禅定を安止定と言う。

意門引転心にいかに良い心を生じさせるか?ということが大事だが、サマタ瞑想では禅定に達することができれば色界・無色界善心が速行作用として何度も生じることになる。

瞑想にはさまざまな種類があり、第五禅定まで達するものもあれば、第五禅定までは達さない瞑想法もあるが、目的に応じた瞑想を行うことが大事である。

初めて生じる意門路においては禅定心は一刹那一回しか生じない。


智慧が鋭い人は、遍作心なしに近行から始まることができる。
二回目からでも、有分心→意門→近行定→安止定の四つの段階を経る。

悟る瞬間の心は、

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → (種姓) → 道 → 果 → 果 → 有分心

となる。

この種姓の時に、凡から聖に心が切り替わる。
この時の種姓の心は、涅槃を対象にできる例外的な欲界心である。

道は一回、果は二度目からの果路から何度でも生じる。

悟りには四種類。
預流、一来、不還、阿羅漢。

預流道に達すると、邪見と疑を除く。
悪い世界に生まれる悪い業がもう機能しなくなる。

一来道に達すると、怒りや欲が弱くなる。

不還道に達すると、怒りを完全に取り除き通常の欲もすべてなくなる。(梵天界に転生する欲が残っている)

阿羅漢道は、一切の煩悩を取り除き完全な悟りに達する。




【質疑応答】


Q5, 何のために人は生まれるのでしょうか?

A5, テーラワーダ仏教においては、何のために生まれるかというより、無明と渇愛があると、自動的に生まれ変わると考えます。

つまり、生まれ変わること自体が苦であるという真理を見ることのできない根本である二つの煩悩、無明(無知)と渇愛(欲)があると、輪廻の仕組みの中で自動的に生まれ変わってきてしまうので、そこに目的や意味はないと考えます。

ただ、仕組み自体に意味はないとしても、生まれてきたからには、意味がある生き方をしていかなくてはいけない、
生きているという事実がある以上、意味のある生き方をすべき、つまり心を育て、悟りに達するという生き方をすべきではないかと私は考えます。

今生の目的とか意味は、いくら考えてもわからない。
もちろん、いろんな意味付けはできますが、それは意味付けであって、何かはじめからある意味や目的というのは、いくら考えてもわからないものです。
わからないことは考えなくてもいい。
ただ、生きてきた以上はなるべく意味のある生き方をしようと努力することが大切。
そう思いますが、いかがでしょうか?


Q6, 社会問題やニュースへの反応の仕方として、仏教では怒りが不善心だとすると、どのような問題やニュースにも怒らずに、慈しみの心でみんなと話し合って解決を目指すというのが、仏教的には正しいということになるのでしょうか?

A6, そうですね。
反応として、なんであれ、怒りは不善で、慈しみ・慈悲喜捨は善心です。

ニュースなどを見ていると、どうしても悲しいものや腹の立つことがあったり、それでもどうもしてあげられないことなどが多々あります。
その時は、少し離れたところから、いろんな原因や条件によって一時的にそういう状況にその人はあるということを冷静に受けとめ、業や

いろいろな条件で一時的にそうなっているのだと冷静に受けとめ、いたずらに怒ったり心の悪い波に巻き込まれないようにすることが、仏教的には大事なことです。

そのうえで、慈悲の心から、自分にできることを考えて、していくことでしょうね。


Q7, 他の仏教の宗派の人で、どう考えてもおかしいと思っていることを言っている人と議論をしていると、話が平行線になって、自分の心にも怒りが生じてしまうことがあるのですが…。

A7, 聞く耳を持った人には話すけれども、一度違うと言って向こうが聞く耳を持たないならほっておく。
それしかないと思います。

聞く耳を持った人には話すし、将来何かの縁になりますようにと思って話すことも大事かもしれませんが、基本的には興味を持った人にしか言わない方がいいかもしれません。

解釈は個々人の違いで自由なことですし、大乗仏教の中でさえ宗派によっていろんな違いがあり、その同じ宗派の中でもまたさまざまな違いがあるほどです。
土俵が違う場合は、プロレスと相撲のようにルールが違うので、話がかみあいません。

ただ、違う時は違うと言え、ということはお経にも書いてあります。

ですので、一応違うと一度言って、相手が聞く耳を持つかどうかによってそのうえさらにどうするか決めたらいいのではないでしょうか。



Q8, 私の家族で、大乗仏教の経典を毎日熱心に読経している者がいるのですが、そのような場合も何か意味はあるのでしょうか?

A8, 大乗の経典であろうと何によってであろうとも、その時にその人の心に善心が生じていれば、それが功徳になり、その功徳を回向すれば、先祖や亡くなった人にとって意味のある効果のある回向になっている可能性はあります。

善心が生じる=功徳。
その功徳を回向すると、さらにその功徳にプラスアルファの善心・功徳になります。



Q9、功徳を積むというのは、たとえばどういう行為でなされるのでしょうか?

A9, 瞑想や布施、アビダンマの学習なども功徳になります。




Q10、随喜は、繰り返しした方が良いのでしょうか?
また、たとえばお布施した人の名簿を見て、偉いなあと随喜すると、それも善心が生じたことになるのでしょうか?

A10, そうですね。
繰り返し随喜した方がより善心が生じます。
自分がかつて過去になした善行為についても、他人がなした善行為についても、随喜するたびに善心が生じ、善心が強まります。

また、他人の善行為に随喜すると、嫉妬する心を取り除きます。
その意味でも、善心となります。

お布施した人の名簿を見て随喜することも、善心が生じることになります。
本来は、お布施した人の名前を書いて掲げたりするのは、他の人も随喜しやすくしたり、本人があとであらためて随喜しやすくするためのものです。

日本では、よく陰徳を積むということが言われて、ことさら名前を隠すことを勧めたりしますが、あまり陰徳でないとだめだとこだわる必要もなく、どちらでもよいことで、大事なことは名誉欲からの布施ではなく随喜することを自他ともにしていくことが仏教においては大事です。
陰徳というのはもともとのテーラワーダ仏教にはないことで、おそらく中国などの伝統的な文化や儒教の影響ではないかと思われます。



Q11、ある人が戒にこだわるのは程度の低い仏教で、五戒などもしょせんは完璧に保つことができない以上、そのような戒は偽善に過ぎない、有身見を断てば戒にこだわる必要はなくなるので、まずは坐禅で有身見を断つようにすべきだ、ということを言っていたのですが…。

A11, テーラワーダ仏教においては、有身見つまり邪見は預流道で断たれるとしますが、預流道に達すれば自然と戒を守ることができるようになると考えるのであり、預流道に達したから戒を破ってよいなどということはありえませんし、そのような考え自体が邪見なのでそのような発言をする人は預流道ではないということになります。

戒は、身体と言葉をコントロールすることです。
心をコントロールするのは瞑想です。

たとえば、心の中でいろんな浮気のようなことを考えていても、実際に行動に移さなければ、五戒としては問題ないということになります。
ただし、心には不善心が生じていることになります。(不善心が生じるのを薦めているわけではありません)

ただ、心の問題は、心がけ次第ではなく、瞑想(慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想など)を行わないと、きちんとコントロールできないとテーラワーダでは考えます。

ですので、戒と瞑想と両方実践することは大事です。

悪い心が生じる根は、普通のレベルの瞑想ではどうすることもできません。
悟らない限りは、悪い心が生じる根を断つことはできません。
しかし、瞑想をして善い心が生じてくると、心の流れが変わってきます。

ですので、悟る前も戒と瞑想に努力することが大事ですし、預流道に達したら自然と戒を守ることができるようになり、悟りの四段階(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に応じて心の悪い根がより完全に断たれていきます。

悟ったら何もかも自由で、戒を破ってどんなことをしても良いなどというのは、テーラワーダ仏教ではありえないことと考えます。

(以上)

(文責・あつし)



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2010年08月03日

7月25日 勉強会

7月25日は、少童神社で勉強会が行われました。
今回はじめて来て下さった方5名を含め、参加者は15人。
御講師はデニヤーイェ長老でした。

ダンマパダ講義や慈悲の瞑想は冷房の入る部屋で行いましたが、呼吸の瞑想は冷房のない大きな部屋で行いました。
しかし、窓を開け放ったところ、意外に少童神社の大きなクスノキの木陰を通って吹いてくる風は涼しく、快適に瞑想を行うことができました。

食事の時間はみんなでいろんな食べ物やお菓子を持ち寄り、和気あいあいと楽しいひとときを過ごしました。


【勉強会の内容】

1, 慈悲の瞑想について

参照
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

人間は、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根から情報をとりいれ、 それらに対して好き・嫌いの感情、つまり煩悩を起こして生きています。

仏教では、こうした煩悩、つまり欲望(好き)や怒り(嫌い)といった思 考・感情から離れることが幸福だと説きます。
欲望や怒りの思考から離れた分、静かな落ち着いた心、つまり 幸福が実現すると説きます。

しかし、悪い考えを止め、良い考えを心に起こすことは、その ままではけっこう難しいものです。

そこで、良い言葉を唱え、悪い思考を止めて良い思考をそこに 起きるようにすることを教えます。
良い言葉を唱えると、わりと難しくなく悪い思考を止め良い思 考を育む実践ができます。

慈悲の瞑想は、まさにそうした実践です。



(慈悲の瞑想に関するQ&A)
(Qは参加 者。Aはデニヤーイェ長老)

Q, 慈悲の瞑想は言葉に出した方が良いのでしょうか?

A, 最初のうちは,慣れるまで声に出した方が良いです。慣れてきたら、必ずしも声に出さなくてもいいです。


Q,慈悲の 瞑想を唱える時の、音やメロディはどうしたらいいでしょうか?

A,静かな 心が伴うものが良いです。なんでも良いというわけではありませんが、心が静まるものであればある程度自由で良いと思います。


Q, ウペッカー(捨)の瞑想が具体的にイメージをつかみにくいのですが、どう考えたらいいのでしょうか?

A,ウペッ カーをイメージするとすれば、空です。何もない、空そのもののが、あえていえばウペッカーのイメージです。否定的でもなく、楽天的で もなく、どちらでもない智慧の状態がウペッカーです。ですので、一番悟りに近い感情と言われます。


Q, 慈悲の瞑想で先祖や他人に良い影響を与えることはできるのでしょうか?

A, 仏陀は,慈悲の心で強い影響をいろんな生命に与えることができました。自分の心の力が強まれば、場合によっては強い影響を与えること もできるでしょう。ただ、仮に他人に影響を与えなくても、慈悲の瞑想によって確実に自分の心は清まり良い影響を受けます。そのことに よって、結果として、良い影響を周囲に与えていくこ とはありえます。

Q, お経はマントラでしょうか?

A, マントラは人のつくったもの。お経は悟った人・仏陀のお言葉です。


Q, 嫌いな人々が特にいない場合も,慈悲の瞑想は嫌いな人々に対しても行った方が良いでしょうか?

A, もともとのお経は、「人」に限らないで、もっと広いいろんな存在を含めて慈悲の心を育むことが説かれています。たとえば、蛇がきらい だったら蛇や、嫌いなもの一切を,あるいはいてもいなくても関係ないと思っている,影響を受けていないと思っている一切のものに対し て、それでは慈悲 の心を育んでみると良いのではないでしょうか。




2,Saṅgha vandanā(僧伽の九徳)の解説

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/sanga-9toku.html

Saṅgha vandanāは,仏弟子たちの特徴について述べられた偈です。
もともとは、神様が仏法僧に唱えたもので、それを聴いて良いと思ったので人々が仏法僧を讃える時に使うようになったと伝えられています。

Saṅghaは、弟子たち、グループの意。
vandanāは礼拝。

Supaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho

Suは良い,正しい。
paṭipannoは,乗った人、入った人。実践する人の意味。
Paṭipadāは道に入っている「事」の名詞で、paṭipannoは道に入っている、その道にもう乗っている「人」を指す名詞です。
つまり、Supaṭipannoは正しい道を実践する人。

bhagavatoは、世尊の。
sāvakaは声聞。聞いて学ぶ人。古代は基本的に口伝で口伝えでいろんな知識の伝達がなされたので、先生そのものが教科書でした。
saṅghoは、Saṅghaのことで、グループ,教団の意味。

Ujuは真っすぐ。
つまり、Ujupaṭipannoは、真っすぐに、悟りを開く目標で道に入っている人、の意味。
在家の場合は、悟りよりも天界に生まれたいとか世俗的な幸福を功徳を積むことによって求めたい気持ちがある場合もありますが、お釈迦様のおられた頃の出家者は,悟りをまっすぐに目指す人々であったということです。

Ñāyaは,修行。
Ñāyapaṭipannoは、修行をやりながら道に入っている人ということ。

Sāmīciは、経験を受け取りながら,という意味。
つまり、Sāmīcipaṭipannoは,慈悲の瞑想などにより、良い影響を受けながら、良い影響を経験しながら、道に入っている人という意味。

Yadidaṃは,たとえば。
cattāriは,四つ。
purisaは、人。
yugāniは、組。二人の組。

aṭṭhapurisaは八人。
puggalāは人。
Esaは,この。
ということを,それぞれ意味します。

預流果(よるか)・預流向(よるこう),一来果(いちらいか)・一来向(いちらいこう),不還果(ふげんか)・不還向(ふげんこう),阿羅漢果(あらかんか)・阿羅漢向(あらかんこう)の、悟りの四つの段階とそれに向かっている人の、四双八輩のことです。

Āhuneyyoは,遠くから行って、持ってくるものを受けるべきもの、存在。
Pāhuneyyoは,客として受け取って,尊敬されるに値すること.
Āhuneyyoはこちらから行って御布施をするのに値し、Pāhuneyyoは来てもらった時に御布施するのに値する、という意味です.

Dakkhiṇeyyoは,与えるべきである存在。

Añjali karaṇīyoは,礼拝するべき存在。

Anuttaraṃは無上。
puññakkhettaṃは、福徳の田んぼ。福田。
lokassā tiは人々の。
つまり、Saṅghaは人々にとって功徳を得るための田んぼのようなものであるということです。

人が仏法僧に近づくためには功徳が必要です。
この仏法僧のうち、人が簡単に近づくことができるのは僧=サンガ(Saṅgha)です。
仏と法は功徳が無いと,近づくのはなかなか難しいといわれます。

Saṅghaがあるということは、功徳を得る田んぼがあるということです。
少ない米で、多くの収穫があるようだというたとえがなされます。
困っている時に、人々が容易に近づくことができるのもSaṅghaです。
Saṅghaを通して,人は仏と法を教えてもらい、仏と法に近づくことができます。





3、「ダンマパダ」 第21〜24偈 解説


「ダンマパダ」 第2章 「不放逸の章」

 第21偈
 不放逸は不死の境地であり、放逸は死の境地である。
 不放逸の人々は死なない、放逸の人々は死せる如くである。

 第22偈
 不放逸におけるこの特質を自覚して、賢者達は
 不放逸を喜び、聖なる行境を楽しんでいる。

 第23偈
 彼らは常に堅忍不抜で奮励努力の禅定者たちである。
 賢者たちは、無上の涅槃、束縛からの安穏を体験する。

 第24偈
 奮起し、念を保ち、行い清く、注意深く行動し、
  自制あり、正しく生活し、不放逸である人の福徳は増大する。

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhp-reading-1.html


不放逸(appamado, appamatta)という言葉の中には、努力・勤勉・精励・入念という意味もあります。

一方、放逸(pamado, pamatta)とは、だるさ、怠惰ということも含めて意味しています。

誰かの生活の中に、放逸があれば、悪い方向に導かれてしまいます。
一方、不放逸があれば、悪い方向にはならないのです。

放逸は、1、人生が悪くなる
    2、死後も悪くなる

不放逸は、1、人生・生活も良くなる
     2、死後も善い所に赴くし、善い名前もこの世にのこっていく

放逸であると失敗します。
不放逸・入念であると成功します。

人間は、往々にして、放逸を楽しんでしまいますが、その場合は失敗してしまいます。
入念・不放逸を楽しめるか、喜びをもってそうした状態になれるかどうかというのは、長い目で人生を見れるかどうかによります。
長い目で人生を見ることができる人は、入念・不放逸を喜び楽しみます。

心には、放逸・怠惰・だるさという特徴がもともとあります。

ですので、放逸という壁を破れば、破る力があれば、人生は良い方向に向かいます。
「放逸の壁を破る」ことがとても大事です。
放逸は人間の心の中の弱点、心の中の弱いところなので、不放逸によって放逸の壁を破ることの大切さを仏教は意識的に説きます。

ことわざに、「農家が農業を好きになれば神にもなれる」というものがあります。
自分の仕事に精励し、怠け心に打ち克てば、どのような仕事でも、どのような生活でも、心はかなりのレベルに達するということです。

ちなみに、第24偈は、私(デニヤーイェ長老)の最も好きな偈です。


Q,同じ「賢者」と翻訳されている言葉が、22偈では”pandita”、23偈では”dhira”となっておりますが、この二つのパーリ語の違いは何でしょうか?

A,panditaは、知識ある人、学者という意味です。dhiraは、知識と不放逸を併せ持つ人です。ですので、panditaの中には、知識だけあって智慧や不放逸のない学者が中にはいるかもしれませんが、dhiraは知識も智慧・不放逸もある人ということですね。


Q,努力や精励の大切さという御話を聞くときにしばしば疑問になることがあります。
日本においては、しばしば過労死という現象があり、働きすぎのために自分自身が体を壊して早死にしたり、あるいは自殺してしまう場合が時折あります。
そこまでいかなくても、仕事のために家族を顧みず家庭が崩壊したり、そこまでいかなくてもあくせく働いて人生を楽しむ暇もないような話は、戦後の日本にはよくある事例のように言われ、欧米のように人生を楽しむ余裕が大事ではないかということがしばしば言われます。
 放逸・不放逸の御話と、このような事例とを、どのように考えればいいのでしょうか?


A,不放逸とは、自分の目標に関係して言われることです。
さらに、自分の心の中の状態についてのことです。

働かされているという意識ではなくて、自ら働くという意識に関わることが、不放逸ということです。

自分の心の中の怠惰な気持ちは、悪い影響を与えます。
この悪い影響を防ぎ、打ち克つことが、不放逸ということです。
働くことと余裕との関係とは、また別の視点から言われていることですね。

心の観点と、目標・目的。
これが不放逸・放逸に関して論じる時に、最も大事なことです。

同じく働いているように見えても、一方ははっきりとした目的があり、自ら進んで精励していれば、いくら働いてもあんまり疲れを感じないということがありますね。
逆に、嫌々ながら、目的もよくわからなくて無理して働けば、とても疲れを感じるということがあります。
また、とても働いているように見えても、肝心のことに気づかず、不注意によって自他に被害をもたらすような出来事を起こしてしまえば、それは放逸です。

この観点から考えてみることも参考になるのではないでしょうか。

(以上)

(文責・あつし)
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2010年05月26日

5月23日 勉強会

5月23日の勉強会は、デニヤーイェ長老が御講師でした。
大雨にもかかわらず、常連メンバーだけでなく新規参加の方まで来てくださり、和気あいあいとした楽しい勉強会となりました。

午前中は、出入息の瞑想や、慈悲の瞑想、歩き瞑想。

午後は、「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)についての講義と、ダンマパダの第15〜20偈を勉強しました。

昼休みには、みんなそれぞれに食べ物やお菓子を持ち寄って、楽しいひとときを過ごしました。

勉強会の会場の少童神社には大きな楠木があるのですが、雨にもかかわらず鶯がやってきて、美しい声で鳴いていました。
昔の人の中には鶯の音色を「法を聴け、法を聴け」と聴いた人もいたそうです。
いつものことながら、デニヤーイェ長老の仏法についての解説は本当に目からウロコのことばかり。
あらためて、もっと瞑想をがんばり、仏教を勉強したいと思う一日でした。


【勉強会の内容】

※ A,「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)について

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/butsu-hou-toku.html


ダンマ・ワンダナー dhamma vandanā

ワンダナーとは、礼拝するという意味。
ダンマの特徴を思い出して礼拝するのが、ダンマ・ワンダナー。


1、 スワッカートー・バガワター・ダンモー svākkhāto bhagavatā dhammo
(善く、正しく説き示された教え)

バガワターは、世尊によって、
ダンモーは、ダンマ、法は、
という意味。

スワッカートー(svākkhāto)は、

su + akkhāto 

で、suは、正しく、うまく、よく、とい意味。
Akkhātoは、説かれた、説かれている。
という意味。

仏教の特徴として、最初も正しく、真ん中も正しく、最後も正しく説かれる、という特徴があります。
説法する時に、お釈迦様は常に、悟りという目的のために、貪瞋痴から離れる教えを説いたということです。

Suがつく言葉では、たとえば他に、スジャータ(sujāta)、つまり良く生れた、という意味の名前の、有名な方もいますね。
Suがつくと、善いという意味です。


2、 サンディッティコー sandiṭṭhiko
(実証できる教え)

実証できる、体験できる、といった意味です。

Sandiṭṭhikoという言葉をもっと詳しく見るならば、

saṃ (うまく) + diṭṭhiko (見る)

という言葉からできています。

つまり、

1、 うまく見ることができる
2、 秘密が無い、誰でも実際に見ることができる

という意味です。

お釈迦様の生きていた時代、多くの宗教の師は、自分の知っていることの一部分は弟子に教えないという風習がありました。
なぜならば、教えてしまうと弟子と自分が対等になってしまうという恐れがあり、自らの権威や利益のためにも秘密を保っておくということがあったからです。
しかし、お釈迦様は何の秘密もなく、すべて教える、という教え方をしたので、当時とても画期的でインパクトがありました。


3、 アカーリコー akāliko
(普遍性があり、永遠の教え)

a は 否定の意味。
Kālikoはさらに、kāla と ika に分けることのできる言葉で、
Kāla は 時間の意味。 
Ikaは、英語でいうと、副詞につく”~ly”みたいな言葉です。

つまり、akāliko
= untimely

ということになります。

時間によって左右されない、どれだけ時が経っても変わらない教え、真理であるということです。

大乗仏教には五時教判(注1)や末法思想(注2)という考え方がありますが、テーラーワーダ仏教においては、基本的にはそうしたことは説かれず、ダンマのレベルは下がらないと説かれています。
ただし、時代によって瞑想に興味を持つ人が多くなったり少なくなったりするということは言われますが、ダンマはどれだけ時が経っても常に有効であり普遍的な真理だと説かれています。

(注1) 天台宗などで言われるもので、釈尊は悟って後に、最初は華厳経の教えを説いたが、よく理解するものがなかったために、方便として阿含経の教えを説き、ついで方等経典、般若経典、最後に法華経と涅槃経が説かれたとし、法華経が最高の教えだとする経典整理の仕方。
(注2) 釈尊が教えを説き始めて千年間(あるいは五百年間)を正法、次の千年間を像法、その後の一万年間を末法、そののちは仏法が滅びるとする歴史観。正法の時代と比べて、徐々に人間の機根が劣っていくという下降史観である。


4、 エーヒパッシコー ehipassiko
(「来たれ見よ」と言える確かな教え)

来て見て、と見せることができる教えということです。

Ehi 来て
Passa 見て

他の宗教は、一般的に、信じてください、ということを言います。
しかし、仏教は、信じるものではなく、確かめてください、来て確かめてみてください、と言います。

たとえば、タイでは、よく在家の方が一時的に出家して、寺院で仏教の生活を体験します。
そのために、とても在家の人とお寺の関係が深く、親しいそうです。
実際に仏教を体験する機会が多くあることは良いことですね。

もっと言うならば、仏教においては、最初のうちは戒律はありませんでした。
お釈迦様は、35歳で悟りを開いてから55歳までの二十年間、一日に二時間しか睡眠をとることなく、教えを説き続けました。
その努力で、それまでバラモン教の国だったインドが、仏教の国になりました。
55歳になった時に、弟子の数も増え、問題を起こす者もでてきたので、戒をつくることになりましたが、それまでは、どういう目的で出家したかを思い出すお経をみんなで唱えることの他には、これといった戒めはありませんでした。
実際にサンガで生活することが、まずは重視されていたのです。


5、 オーパナイコー opanayiko
(実践者を涅槃に導く教え)

opanayikoは、

upa (まで) + naya (行かせる、持っていく) + ika

で、つまり解脱まで導かせる教え、ということです。


6、 パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー paccattaṃ veditabbo viññūhī
(賢者たちによって各自で悟られるべき教え)

paccattaṃ  個人的に
vedhitabbo 知るべきである 
viññūhī  賢者、賢い人

お釈迦様は、悟りまでの道をきちんと説明することができるし、心をパワーアップする方法を教えることはできますが、誰かを悟らせることはできないし、誰かの心をパワーアップすることもできない、努力するのは自分自身ですよ、ということです。

馬を水のところに連れて行くことはできるけれども、水を飲ませることはできない、ということはよく言われますね。

仏教は、悟るまでの道をきちんと説明してくれていますが、各自、自分自身が、それぞれ個人的に、実際に自分で修行して努力して、その成果を自分自身で得るしかないという教えです。


最後の偈文

jīvita pariyantaṃ saraṇaṃ gacchāmi
(私は生涯帰依します)

この箇所は、

jīvitam yāva nibbānan saraṇaṃ gacchāmi
(私は悟りに達するまで帰依します)

という表現も使います。

先の方の文章で、jīvitaは人生、pariyantaṃは最後まで、という意味なのですが、このjīvitaを悟りに達するまでの輪廻の人生すべてと解釈するならばいいのですが、ただこれだけだと、今の人生は仏法僧に帰依しても、次の人生はどうなるの?ということにもなりかねません。
後の文章の方が、正確にわかりやすいかもしれませんね。

悟りに達するまで、仏法僧に、この人生、および輪廻の中のどの人生も、ずっと帰依しますということが仏教においては正しいあり方です。


※ B、「ダンマパダ」 第十五〜二十偈 解説

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf


第十五偈
「ここに悩む、あとで(死後にも)悩む、悪をなすものは両方で悩む、
自分の汚れた行為を見て、彼は精神的にも、肉体的にも悩む。」

この偈は、もともとは、マガダ国のアジャータサットゥ王子について言われたものでした。
父のビンビサーラ王を死に追いやり、苦しむアジャータサットゥ(アジャセ)王子について述べられたものです。

Socatiとvihaññatiは、前者が精神的な苦しみで、後者は肉体的な苦しみということです。


第十六偈
「ここで喜ぶ、あとで(死後も)喜ぶ、善をなした人は両方で喜ぶ、
自分の清らかな行為を見て、彼は喜び、喜び満足する。」

この偈は、ダンミカというある在家の信者について述べられたものです。
彼は、お釈迦様の教えを聴き、きちんとした生活を送っていました。
心を清くするという目的をしっかり持って生きていました。
年をとっても悩みなく過ごしていました。

たまたまお坊さんたちがやってきた時に、読経してもらっていたら、ダンミカのところに神々がやってきたのが、ダンミカにのみ見えました。
神々は、ダンミカが多くの功徳を積んだ人なので、死後は自分たちの住む神々の国にやって来てくれるようにダンミカに言いにきたのですが、ダンミカは神々がお経を聴くことの邪魔になるので、「やめなさい」と言いました。
読経をしていたお坊さんたちはびっくりして、自分たちに言われたものと思い、お釈迦様のところに戻ってその顛末を話すと、お釈迦様は、あなたたちに言ったのではなく、こういうわけでダンミカは神々に言ったのだよ、と説き明かし、この偈をおっしゃいました。


第十七偈

「ここで悩み、あとで(死後にも)悩み、悪をなすものは両方で悩む。
“私は悪いことをした”と、悪趣に行ってさらに多く悩む。」

刑務所の人などは、犯罪を犯した時には悪いことをやっているという思いも自覚もなくても、あとから自覚ができてくると、このような気持ちでしょうね。

悪をなした人は、あとでその結果を受けます。

ただし、悪い結果から、ある程度人間は離れることもできます。

人間は、どうしても間違いは起こります。

しかし、仏教では、後悔することも悪いと説きます。
後悔をすると、前向きに動けなくなります。

もし、その行為をした時は悪とわからなくても、あとでわかったのならば、後悔はしないで、

1、 未来は二度とその行為をしない。もう一回やらないことを選択する。
2、 その悪かった行為の反対の、良い行為を行う。

という二つのことを心がけ、実行すべきです。

たとえば、親に口答えをして反抗し、あとで悪かったと思ったら、もう一回はやらないことを選択し、できるだけ親を喜ばせることを行っていくことです。

人生は、前向きにいくしかありません。
そのためには、

・ 後悔しない。
・ 悪かった行為の反対の良い行為をする

の二つが大事です。


第十八偈 

「ここで喜び、あとで(死後に)喜び、善をなした人は両方で喜ぶ。
“私は善を行った”と喜び、善趣に行ってさらに多く喜ぶ。」

この第十七、十八偈の善趣と悪趣というのは、アビンダマで言えば、善趣は天・人間であり、悪趣は地獄・餓鬼・畜生といったことになりますが、必ずしもそれだけに限らず、今よりも良い所と、今よりも悪い所、と理解すれば良いです。

同じ人間界でも、今よりも悪い境遇になれば悪趣に行ったということですし、今よりも善い境遇になれば善趣に行ったということです。
自分の行為で、悪趣ではなく、善趣に行くように心がけねばなりません。

ちなみに、ここで喜びを意味することばは、nanda(ナンダ)で、お釈迦様の弟子のアーナンダは喜びを与える人という意味の名前、お釈迦様の弟のナンダはこのナンダで喜びという意味の名前です。


第十九偈

「もし文献に関してたくさん話しても、実践する人にならないで、放逸な人であれば、
牛のお世話をする人が他人の持ち物の牛の数を数えるようなもので、沙門性の結果(仏教修行者の分け前、解脱)を得ることはない。」

これは、お釈迦様が出家者に対して述べた偈です。

たくさん知識があったり、本を読んでいても、実践しなければ意味が無いというのが仏教の教えです。
仏教は、実践の教えです。


第二十偈

「もしも少なく文献(教え)について語っても、ダンマをダンマに従って実践して、
貪瞋痴を捨てて、正知があり、よく清くした心があり、
ここに(今生に)、また後世に執着がないならば、彼は沙門性の結果(解脱)を得る人です。」

これは、出家者の特徴を述べています。
ダンマを実践し、貪瞋痴を離れ、良いサティ(正知)を持っている、
今世と来世を強く執着することなく、沙門性の結果を得る。
これが本当の出家者の特徴です。

本当の仏陀の教えかどうか、各自が自分で確認する方法があります。
その確認する方法とは、その教えが、貪瞋痴を減らせる教えかどうか、ということです。
仏教は、貪瞋痴を減らす道を教えるものです。
増える道だったら、仏教ではないということです。


※ C,瞑想について

(出入息の瞑想について)

息をする時に、鼻の感覚に集中してください。

(慈悲の瞑想について)

「生きとしいけるものが幸せでありますように」という一文が、慈悲の瞑想の鍵となる一文です。
この一文の中に、他の慈悲の瞑想のフレーズのすべても入っています。
もっと細かく実践したい人は、慈のみでなく、悲・喜・捨を育てるフレーズや、対象も私・私の親しい人々や、さらに詳しくいろんな形で念じても良いです。
しかし、他の悲・喜・捨を育てるフレーズや、私・私の親しい人々、といったすべての事柄は、この「生きとし生けるものが幸せでありますように」という一文には含まれています。

慈悲の瞑想を行うと、その瞑想の対象の人が幸せに変わるかどうかというと、必ずしもそうなるわけではありませんね。
しかし、慈悲の瞑想を行えば、その瞑想を行う人の自分自身の感覚には、変化がすぐに現われます。
相手に対する感覚や気持ちが変わるのです。

慈悲の瞑想を行うと、
自分の見方が変わってきますし、
自分が変化を獲得します。

慈悲の瞑想に慣れると、怒りたくなくなってきます。
怒るというものが心の中にあるから、人は怒るものが外にあったときに、怒るものとして見えてきます。
しかし、自分の心の内側に怒るというものがなければ、怒るものが外にあっても、怒るものに見えてこずに、その物事がよく観察できるようになります。
これが、慈悲の瞑想の大きな結果です。

慈悲の心を育てることが、人間としての価値ですし、良いところに生まれ変わる自信も生じてきます。
食べ物などの幸せは一時的なものですが、慈悲の幸せはずーっと続きます。


(瞑想全般について)

人は考えることに慣れていますし、かつ、世の中から常に考えるようにさせられています。
ですので、思考を止めること、つまり瞑想というものはけっこう難しいのです。

しかし、お釈迦様は、こんなたとえ話をされています。
赤ちゃんが、歩けるようになるために、何度も、ちょっと立ち上がって歩こうとして、また横になって休んで、また歩こうとして、繰り返し行います。
人が瞑想に慣れるのも、このようなものです。

瞑想も、毎日行い、心、身体、行為が瞑想になれることが大事です。
毎日、十五分ずつでも、瞑想を実践してください。

瞑想において、四つの邪魔(マーラ)があるといいます。
体の痛み、妄想、外からの音・邪魔、眠気、の四つです。
この四つに負けぬように、瞑想に慣れるまで努力してください。


【デニヤーイェ長老とのQ&A】

Q,(あつしの質問)

よく、成功哲学などで、積極的な思考を持っていると成功しやすくなる、ありありと良いイメージを思い描いて、明るい心を持つと人生はうまくいく、ということが述べられているのですが、仏教の観点から言えば、こうした意見はどうなのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

体には、心の状態の結果がすぐに現われるので、明るい心を持っていると、表情が明るくなって、元気で、その結果として物事がうまくいくということはありますね。
ですから、明るい心を持つことは、仏教でもとても大事にします。

しかし、何をもって明るいとするか、明るさの定義が、文化や社会によって違います。
たとえば、ある文化や社会では、物質的な生活を楽しみ、物質を享受するのが、明るいとされているかもしれません。
しかし、それはずっと続くものではなく、変化していくものです。
ですので、バランスが大事で、明るい心と、無常を観察する智慧などのバランスが大切なことです。

ただ、お釈迦様の時代に、こんな御話があります。
ダイバダッタが、お釈迦様に対して、もっと戒律を厳しくするように要請したことがありました。
しかし、お釈迦様は、悟るという目的に関係ないところで、むやみに厳しい戒律をつくることはしませんでした。
目的に関係ないところでがんじがらめになって陰鬱になるようなことはせずに、明るくのびのびと行うのが仏教であるということは言えるかもしれません。


Q,(Kさんの質問)
慈悲の瞑想の時に、イメージをふくらませて唱える方が良いのでしょうか?
それとも、ことばだけを追って唱える方が良いのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

どちらも良いことで、最初にイメージを持ち、徐々にことばで念じるようになっていけばいいです。
イメージを持つこともとても良いことです。

しかし、「私の嫌いな人々が幸せでありますように」や「私を嫌っている人々が幸せでありますように」というフレーズは、具体的にイメージを膨らませてしまうと、怒りが自分の心に生じてしまうかもしれません。
怒りは慈悲の反対で、かえってよくない結果を生じてしまいます。
ですから、この二つの対象を念じる時は、イメージをふくらませず、言葉だけによって唱えるようにしてください。



Q,(Sさんの質問)

仏典を読んでいたら、悟った人にはなんの願いも希望もない、ということが書かれた文章があったのですが、悟りは願うことではないのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

悟りは自分の内側で発見するものであり、自分以外の何か神や仏陀などが上から与えるものではありません。
願ってお祈りしたら、上から与えられるというようなものではありません。
ですので、悟りは願うというよりも、ダンマを実践して、発見するもの、ということです。


Q,(あつしの質問)

大乗仏教では、よく菩提心ということが言われていて、仏になることを願うことが大事だと強調される場合があるのですが、テーラワーダ仏教ではどうなのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

テーラワーダ仏教では、仏(=ブッダのこと)・辟支仏(びゃくしぶつ=師なくして独自にさとりを開いた人)・阿羅漢(=元々は「尊敬されるべき修行者」の意)・菩薩(=元々は「悟りを開く前の修行時代の仏陀」の意)の順番でした。

しかし、大乗仏教では、辟支仏と阿羅漢は自分だけの悟りを求めて利他を求めない者であり、利他を求める菩薩の方が格上であるという位置づけがされるようになり、仏・菩薩・辟支仏(=縁覚)・阿羅漢(=声聞)という順番になり、菩薩が仏をめざす者として二番目に来た、ということになりました。

ただし、テーラワーダ仏教においても、誰でも仏や阿羅漢になる可能性はないわけではないので、菩提心を起こす(仏になることを願う)ということが間違いだというわけではありません。

しかし、通常の場合、いきなり仏や阿羅漢を目指すということよりも、まずは地道に心を清くすることを目的にした方がいいかもしれませんね。

(以上)

(文責・あつし)
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2010年05月18日

第五回スマナサーラ長老福岡講演会 

5月15日、福岡市の「アミカス」で、スマナサーラ長老の講演会がありました。
テーマは「日常生活で役に立つブッダの智慧」。
大変わかりやすく、ためになる御法話でした。

今回の参加者は100〜150名ほど。
長老の御法話はユーモアも効いていて、会場からはときどき楽しそうな笑い声もあがり、皆様、うなずきながら聴聞されていました。
瞑想の時間には、会場の皆様全員、試行錯誤しながら真剣に取り組んでいる様子が伝わってまいりました。
質疑応答の時間にも活発な質問が会場から出ました。

昼休みの時間にはSさんのご自宅で、スマナサーラ長老とデニヤーイェ長老への食事のお布施があり、今回講演の企画運営に携わったスタッフも一緒に食事させていただきました。
とてもおいしい料理の数々で、すばらしいひとときでした。


@「日常生活で役に立つブッダの智慧」 講演記録メモ
(この記録メモは、あとでノートを元に思い出して作成したものです。)


仏教には、二つの側面があります。

1、 この世でいかに成功をおさめて、幸せになるか。
2、 死後もいかに成功をおさめるか。

このように言うと、他の宗教も、この世の幸せやあの世の幸せを教えているので、同じではないかと言う人がいます。

しかし、仏教は、その教えの中身が違います。
他の宗教は、たいてい、神や他人に頼って助けてもらうことを説き、祈りや加持祈祷を説きますが、仏教はそうしたことは説きません。
他の多くの宗教は、死後はどうするのか、結局助けくれるだろうというだけで、何もしていないのです。

たとえば、西洋は民主主義を説きますが、その宗教には民主主義的な要素はありません。
タテの命令と服従の関係でできています。

しかし、仏教は、本当に革命的な、タテの支配をなくした世界です。
生命はいろいろ差があっても、平等だということを発見し、教える宗教なのです。
生きるとは何か、徹底して調べて、明らかにした教えなのです。


仏典の中で、お釈迦様は、当時インドに伝わっている神話を踏まえて、以下のような話をされました。

その神話では、神々が阿修羅と戦ったときに、帝釈天が兵士達に、もし戦いでくじけそうになったら、まず水天やいろんな神々の旗を見なさい、それが見つからなければ帝釈天の旗を見なさい、そうすれば勇気が出て阿修羅たちと戦えます、ということを言ったとされています。

しかし、お釈迦様はそのことを踏まえて、よく帝釈天はそんなことが言えるものだ、帝釈天も神々も本当はおびえっぱなしで、恐怖におびえている、貪瞋痴の汚れた心から免れていない、そのような神々にすがっても、あてにならない、ということを説かれました。

お釈迦様は、誰もあてにするなよ、ということを言われました。

助けてあげる、という話は、あんまり信用しない方がいい。
そう言ってくる宗教や権力者というのは、人をコントロールしようとしているかもしれません。

たとえば、ギリシャの国家財政が最近破綻しましたが、日本の財政赤字も、国民ひとりあたり六百三十万円ぐらいだと言います。
小学生でも、自分の持っているお小遣いの範囲でものを買おうという、ちゃんとした計算能力があるのに、政府は好き勝手にこんなに借金をつくってしまって、それをあんまり皆なんとも言わずどうにも今までできなかったわけです。
私たちはこういう世界に生きているのです。

こうした世界に対して、

・ 自分の理性で、自由に自分で考える。一人一人が考えてしっかり、自分自身でがんばらなくてはいけない。
・ 誰も何もやってくれませんよ。
・ 生命の法則は、一人でがんばるようになっている。

ということを、お釈迦様はお説きになられました。

実際に、皆さん、自分で食事して、栄養を消化して、生きているわけでしょう。
誰かが食べ物を口まで運んで、代わりに消化してくれるわけではないでしょう。
他の人が食べて、私の腹がふくれるということはないでしょう。

客観的に世の中を見る。
人の話に軽率にのってはならない。
世の中は、人を管理しようとしてくる人や宗教に満ちている。
だから、自分自身でしっかり考えて生きる。
そうしたことが大事なのです。

しっかりと世の中を見ると、それぞれの生命は自分で生きているのです。

ですから、それならば、優しい人、本当に相手のことを思いやる優しさのある人がすべきこととは、どう生きるべきかを教えてあげることなのです。
人を助けることではなく、その人自身が自分で助かるように、どうすれば成功するか、こうすれば失敗しないよ、ということを教えてあげることです。

それが仏教です。


一方、タテの社会はマインドコントロールで、人を管理しようとします。

ポイントは、管理は成り立たない、うまくいかない、ということです。

生命は、根本的には、自由であるはずであり、独立できるはずなのです。

インドの昔の首相のネールは、インドにどれぐらいの数の問題があるかと問われて、当時のインドの人口の数を答えました。
つまり、人間ならばトラブル、と言ったわけです。

これは立派な観察ですが、では、なぜ人間ならば問題が生じるのでしょうか?

それは、管理する、管理される、ということによって生じるのです。

生命の憲法、宇宙の法則は、生命は平等であるべき、ということです。

法則は破れないのです。
ただし、法則をいじることはできます。

たとえば、宇宙に行く場合、そのまま宇宙空間では人はすぐに死んでしまいますが、地上と同じ環境を人為的につくって、大変な努力をして、宇宙飛行士は宇宙に行って帰ってきます。
これは、法則を破ったわけではありませんが、法則をいじっているわけです。
しかし、それほど大変な努力をして法則をいじるわりには、あんまり何か人類にとって良いことがもたらされているわけではありませんし、大変な苦労です。
それはともかくとして、法則は大変な努力でいじることはできますが、破ることはできないのです。
法則を守れば、いとも簡単に、そんなに大変な努力をしなくても生きていけます。

法則を守ると、幸せが生れてきます。
法則を破ると、終わりです。
ですから、敵を慈しむというのも、生命の法則を守ることなのです。
生命の法則を守れば、幸せになります。
生命の法則を守ることは、生きる権利の獲得です。


ですから、自分で自分のことをしっかりやればいいのです。
それができないのは、心の弱みなのです。

心の弱みをなくす方法は、これから教える瞑想です。
(※ 午後の瞑想会のこと)
汚れたことを考えるから、心のエネルギーを浪費して、エンジンに馬力が出ない、
心のエネルギーが入ってこない状態になるのです。

心の汚れを落とす方法を、お釈迦様は教えました。
ですから、各自、がんばって、自分の心の汚れを落とすことを実践するのです。


また、人生の悩みの大半は、人間関係のトラブルから起こっています。

人の人権を守っているのか、独立した人格と認めているのか。
人を怒鳴ったりののしったりしていないか。
相手の人格や尊厳をつぶしていないか。

そうしたことがあると、人がそれで言うことを聞かなくなります。
自分が偉いと思ってしまって、人に罰を与えようとしても、必ず失敗します。

一人一人の生命には人権があって、自分の力で生きていると理解した上で、話すと、うまくいきます。

お釈迦様の智慧というのは、生命は平等であることを発見したということです。

お釈迦様には、いろんな数多くの前世があったとジャータカには描かれていますが、そうした菩薩の時代の中で、お釈迦様は決して嘘は言わなかったといいます。
嘘は言わない。
人に真実をかくすから、相手の人権を侵害することになるからです。

私たちも、慈悲に基づいて、生命の人権を大事にする、侵害しない。
嘘は言わない。
道徳を守る。
そうすれば、生命の法則を守っているのですから、必ずうまくいきます。


自分、仲間、全ての生命のためになるか。
これが道徳です。

自分のためになるか。
仲間のためになるか。
全ての生命のためになるか。

この三項目を全て満たすのが、道徳を守るということです。

道徳とは何か、この他に、いろいろ複雑な膨大な話をする必要はありません。

この判断基準三つを心に入れて生きてみてください。

人の尊厳を守る、自分の尊厳を守る。
生命が自由であって、かつ、自分は自分によって命令する。
管理しても、管理されても、結局はどの生命も自由なのです。

自分のことは自分でしなくてはならない。
一人一人が独立しています。

道徳とは、自分・周り・全ての生命の幸福を守ることです。
この道徳の三項目に照らして、その時その時に、行為を選んで生きるのです。


行為を選ぶ時に、もうひとつ大事なことがあります。
それは、感情でやらないこと、理性で行うことです。

感情が湧いてきたら、いったん停止することです。

ちょっと待ってみる。
貪瞋痴の感情が湧いてきたら、いったん止めてみる。
意志で止めてみるのです。

そうすると、能力があがっていきます。

生命の権利を守り、三つの道徳項目を守り、ちょっと停止してみる。
そうすると、100%の確率で成功します。

道徳の三原則を、日常生活にあてはめてみてください。


さらに、もうひとつ生きていく上での心がけを言うならば、借金はなるべくしないようにしてください。
投資はいいのですが、個人個人はなるべく借金をしてはなりません。
自分の生き方に必要なお金は、自分で持たなくてはなりません。

また、もうひとつ知っておくべきことがあります。
生きることはそんなにラクではないということです。

生きることはラクではありません。
すぐに不機嫌になってしまう。
何をしても、疲れるのです。
痛みで生きている。
すぐに不機嫌になるのです。

このポイントに気づいて、気をつけてください。
一分生きていると、56秒ぐらいは不機嫌になりやすいことが生じてくるのです。
ですから、これをやめて、にこにこと笑っていてください。
そうすれば、成功します。

笑顔で、微笑んで生きるのです。
これは、ムリにやらないと、できないのです。
修行と思って、微笑むことを心がけてください。


もう一つ、ポイントがあります。

仕事で、大きく落ち込んで、自殺したり、ダメになったりする場合があります。
これは、理性がなくなっているのです。

多くの人には、悪い習慣があります。
悪い習慣というのは、物事を大きく見すぎることです。

でっかすぎる目的を持つと、体が動かなくなってしまうのです。
でっかい目的に足を引っ張られないようにすることが大事です。

小さく分析するのです。
小さなコマに、小さく小さく切る。
ステップ・バイ・ステップ。
小さな項目で動くのです。
そうすれば、なんてこともなく、できます。
今目の前にある、小さなコマを、今ここでやる。

それには、小さく分ける分析能力が必要です。
小さなコマをしっかり学ぶことが、分析能力です。
この分析能力は、初期仏教の特徴で、初期仏教に特徴的な能力です。

毎日、何でも分解する。
小さく分けて分析する。
小さな項目で動く。

これを心がけてください。


さらに、愛語ということを心がけて生きてみてください。

愛語とは、聴いた人の気持を傷つけない言葉のことです。

また、愛語を心がけるにあたっては、しっかりと発音し、ゆっくり話して、生きてみてください。

しかし、時折、とてもゆっくり話している人を見ると、いらいらすることがありますね。
あれは、本当にきちんとゆっくり愛語で話しているわけではなく、その人が無駄話をしているからいらいらさせられるのです。
ゆっくり話しても、無駄話ではダメです。

何を言いたいか、また、そのための話の量を知り、はかってしゃべってください。
目的やそのために必要な量をはかってしゃべるのです。

一時間の話を、きちんと整理して、二分ぐらいに整理すれば、どれだけゆっくりと話してもいいでしょうし、ゆっくり話せます。

あと、いくらか貯金があった方がいいですね。
在家の方は。
というのは、明日どうなるかわからないからです。

むやみにケチになって貯金しようとするのもいけませんが、明日どうなるかわからないということから、合理的に考えて、貯金をしていってください。

人によっては、不安から際限なく貯金しようとしてしまう場合もありますね。
ただ、いくら貯金しても、不安は決してなくなりません。

不安ほどありがたいものはありません。

安心は、ありえません。
世界は不安なのです。
だから、心も当然不安です。
これはどうってことない事実です。

不安があるから、人はがんばるのです。
不安は、生きる衝動になっているのです。

ですので、貯金は理性に基づいて行い、布施を心がけて生きてみてください。

貯金するほど収入がないと悩む人は、まず先に自分からあげる人になることも良いかもしれません。
布施を行い、先に何かこの世界にあげる人は、法則によって自分も与えられるのです。

また、むやみに人を信頼することはやめる。
人を信頼することはほどほどにする。
自分のことですらよくわからず、信頼できないのが人間なのですから。
ましてや、他人をそんなにむやみに信頼できるはずがありません。

ポイントは、自分が信頼できる人間になる、信頼できる人間に自分を育てる、ということです。
これしかありません。

振り込め詐欺なども、振り込まないでください。
何のために、と尋ねて、尋ねて、しっかり調べてください。


(以上)


【スマナサーラ長老とのQ&A】


Q,(あつしの質問)

不安や焦りがあんまりひどくなると、冷静に立ち止まったり、小さなコマに分析したりできないで、頭が不安や焦りでいっぱいになってしまうことがあります。
こういう時は、どうすればいいのでしょうか?


A,(スマナサーラ長老の御答え)

不安には、そのつど適切に対処しないといけません。
そうしないと、どんどん次々と新しい不安がたまっていって、大きくなり、パニックになってしまう場合があります。

また、不安は海の水のようなもので、なくなりません。

ですので、そのつどそのつど、適切に、今ここに、目の前にあることに対処するしかありません。

今、ここに、人生というものは、誰でも制約されています。
ですから、本当はあまり選択の余地はないのです。

自分は人生どう生きようかとか、将来どうしようとか、あれこれ考える必要はありません。
今ここの、目の前にある階段を一歩登るだけに集中すればいいのです。

そうすれば、人生の階段を、一歩一歩登っていけます。

アレクサンダー大王も、ゲームをしながら隣の国が欲しいなぁとただ思っていただけであんなに大帝国ができたわけではなくて、そのつどそのつど、今目の前にあることに尽力していって、結果としてああなったのです。

「今、ここ」の二つのことばを心に入れて生きてください。

Q,(若い男性からの質問)

愛語ということをおっしゃられておりましたが、優しく言おうと心がけていても、相手が受けいれてくれなかったり、衝突したりすることがあります。
どうすればいいのでしょうか?


A,(長老の御答え)

相手の心に自分の言葉が届くまでは、自分の責任です。
わかりやすく、相手の心に届くように、工夫して言葉を話すことが大事です。

相手の人権を認め、愛語でわかりやすく話すことをしないで、相手が怒りだしたなら、相手が聞いてくれないことも、相手の怒りも含めて、自分の責任です。

しかし、相手の人権を認め、愛語でわかりやすく話しているのに、相手が怒り出したならば、それは自分の責任ではなく、相手の責任です。


Q,(男性の質問)

貪瞋痴の、貪と瞋はまだわかる気がするのですが、痴というのがよくわかりません。
痴とは、どう考えればいいのでしょうか?

A,(長老の御答え)

普通の人間の場合、痴は24時間あるので、たしかにわかりづらいんですね。
貪と瞋が起こっている時以外の妄想は、痴と考えて良いです。
痴は非生産的なものです。
貪や瞋は、何か生産する場合もあるんですね、動機は悪いですけれど。
その点、痴はまったく非生産的だし、かつ痴になればなるほど自覚しにくいという特色があります。
仏教を学び、瞑想を実践して、痴がうすまってくると、少しずつ痴が自覚できるようになってくる場合もあります。
ただ、はじめのうちはよくわからないので、仏教を学び、瞑想を実践してください。


【瞑想会】

瞑想指導の時間では、スマナサーラ長老はとてもわかりやすく丁寧に、時に厳しく、「実況中継」「ストップモーション」「スローモーション」「坐る瞑想」「立つ瞑想」「歩き瞑想」や、背筋の伸ばし方などを教えてくださいました。

特に、以下のことを最後に強調されていました。

瞑想の御利益は、瞑想をしないとあらわれません。
瞑想をせずに、瞑想の御利益だけ望んでもありえません。
自分自身が瞑想にがんばるしかありえません。
商品を買うと今はポイントがついてくることが多いですが、瞑想もポイント制と思ってください。
瞑想をするごとに、ポイントがたまる。
瞑想をしないと、ポイントはたまらない、と。
ポイント制と思って、一人一人瞑想してください。


(以上)

(文責・あつし)
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2010年04月27日

4月25日 勉強会

4月25日の勉強会は、アビダンマッタサンガハの第六章「摂色分別」(仏教の物質論)の箇所でした。

ウ・コーサッラ長老の講義は、本当に明晰でわかりやすく、自分ひとりで読んでいると難解で味気なかったアビダンマが、長老に質問しながら勉強すると血の通ったわかりやすいものになってくるので不思議なものです。

今回の勉強会の会場だった「サンレイクかすや」は、粕屋町にあるまだ新しい立派な施設でした。
すぐ近くには駕与丁(かよいちょう)公園があります。
昼休みには長老を囲み、窓の外の風光明媚な駕与丁池を眺めながら、和気あいあいと食事会をしました。

常連のメンバーの他に、新しく今回の勉強会に参加してくださった方が三名もいました。
中には他県から参加してくださった方もおられました。

とても楽しい、有意義な勉強会でした。



(勉強会の内容)

仏教においては、あらゆる事象を、名(精神)と色(物質)の二つに区分する。

そのうち、名は、心と心所に区分される。

色のみ眼で見ることができる。
心と心所はブッダの智慧の力でしか明瞭に見ることはできない。

アビダンマでは、色(物質)の種類は、28種類に区分される。

そのうち、実際に存在する物質を完色と呼び、18種類が完色に区分される。
それ以外の10種類のものは、実在しないが、完色の状態を色として表現したものである。



【完色】


完色は、大種・浄色・境色・性色・心色・命色・食色に区分される。

・ 大種とは、地・水・火・風の四種類。
地は物質の基礎の働き。
水は物質を引き寄せたりつなぐ働き。
火は熱の働き。
風は、たとえば背筋を伸ばしたり縮めたりする、体を支える動きの働き。
大種は原子ではなく、他の眼耳鼻舌意などをつくっているわけではない。


・ 浄色は、目・耳・鼻・舌・身。

・ 境色は、色、声、香、味、触。
ただし、触は、大種の中の地・火・風の三つのことである。
(地・火・風の他に触はない)

・ 性色は、女性、男性。

・ 心色とは、心が生じる時に依存する物質のこと。現代人にとってはわかりやすく脳と言っても良い。

・ 命色は、物質の寿命を司る色、命根。

・ 食色は、滋養素。


風は意識によって起こる。
心が風の物質を生じさせる。
大体、中国の気やチベットのルンもそのようなものを現しているとは言えるのかもしれない。
しかし、テーラワーダでは風を操ることを意識的に修行するということはしない。しかし、神通力が風を起こすことはあるとはしている。



【非完色】


非完色は、分断色・表色・変化色・相色に区分される。


・ 分断色とは、虚空界のこと。
物質と物質の隙間のことであり、物質の間の空間を指す。
べつに何か実体として虚空界という物質があるわけではない。

時折、西洋のオカルトなどでは、アカシック・レコードなどと言って、この虚空界に記憶があって、それに接続できればいろんな記憶を取り出すことができるという話があるけれど、テーラワーダから言えばそのようなことはない。
そうした発想は虚空界を何かの実体や物質と勘違いしたことから生じたと推測できる。


・ 表色とは、身表と語表。
つまり、意思表示としての言葉や体の行為で、善悪ともに含まれる。

・ 変化色とは、表色の身表と語表に加えて、色軽快性・色柔軟性・色適業性の五つ。
色軽快性・色柔軟性・色適業性とは、いろんな原因によって、完色18が、軽やかになったり、柔軟になったり、仕事をしやすくなったりした状態を、そのような色ができていると表現していることである。

・ 相色とは、色積集・色相続・色老性・色無常性。
生命の肉体物質の生・住・滅を、色として表現してある。
その中の、生を、認識器官が完成するまでを色積集と呼び、完成してから死ぬまでを色相続、住を色老性、滅を色無常性と呼んでいる。



【さまざまな色の区分の仕方】

色にはさまざまな区分の仕方がある。

・ 内色(浄色)・外色(浄色以外)

・ 基色(浄色と心色)・非基色

・ 門色(浄色と表色)・非門色 (身門と語門という意味で門)

・ 根色(浄色と性色)・非根色

・ 麁色(浄色と境色)・細色   (麁とは粗いという意味よりも明らかという意味)

・ 執受色(浄色と心色と性色と、声色を除く境色と水色と食色と分断色)・非執受色  (業生色=執受色 業生の色、渇愛・悪見によって所縁とされる。)

・ 有見色(境色の中の色色のひとつだけ)・無見色

・ 取境色(浄色)・不取境色   (対象をとるかどうか)

・ 不簡別色(声色を除く境色と水色と食色)・簡別色   (他のものと切り離せないかどうか)



【色の特徴】


すべての色は、以下のような特徴を持つ。

無因 (因=貪瞋痴・不貪不瞋不痴、物質はそうした因を持たない)

有縁 (業、心、時節、食のいずれかの縁による)

有漏 (貪瞋痴、欲の対象)

有為 (業や心がつくる。無為=涅槃とは異なる)

世間 (固執の蘊(取蘊)。出世間ではないということ)

欲界 (欲界・色界・無色界の中で、欲界に存在するのが物質(色)である)

無所縁 (心・心所の所縁をとらない)

非所断 (不善煩悩のように捨断できない)



【人間の身体を生じさせるもの】

業・心・時節・滋養素の四つが、人の身体を生じさせる。

時節とは、寒暑など、自然の法則。

滋養素(食色)は、何かのものを食べた時に、自分の体の中の滋養素とそのものの中の滋養素が合わさって栄養となり、人の肉体をつくるとテーラワーダでは考えられている。

例として、病気を考えるとわかりやすい。

病気は、この四つの要因によって起こるとアビンダマでは考えられる。

よく新興宗教などでは、何でもかんでも病気は業によって生じると説いたり、あるいは心によって病気になると言う場合があるが、必ずしもそうとは言えない。

あまりにも暑かったり寒かったり、あるいは食べ物に毒が入っていれば、業や心がどうであろうと病気になる場合はある。

業によってなんらかの容貌・姿形に生れつく。 
心によってその容貌から、より穏やかな表情になったり厳しい表情になったりする。
また、心によって身体が軽やかに元気になったりする。
適した服装をしていると、時節によって身体が軽やかで元気になるとも言われている。
滋養素によって身体が軽快で適業の状態になる場合もある。

美しい容姿に生れたのに性格が悪い人というのは、善業が影響を与えて美しい姿に生れついたと推測されるが、生れた後の周囲の環境や生前のその他の悪業の影響で現在はそのような性格になっていると考えられる。

・ 業生色 不善12 大善8 色善5=25 の過去の業
結生心の生起から、生・住・滅の瞬間瞬間に生じる。

・ 心生色 無色界異熟心と二つの前五識を除く75
第一有分心から生・住・滅の生にのみ生じる。(結生心、阿羅漢の死心、住・滅を除く)

・ 時節生色 熱、火界
時節生色がずっと生じているから、物は生じる。
心が17回生滅する間に、物質は一回生滅する。
時節生色は、生・住・滅の住の時に物質を生じさせる。
時節とは、自然法則である。


・ 滋養素 食 食べた後、内と外の滋養素が混ざる。

病気などを
この四つの要素の、どれかひとつだけに偏って原因を決め付けて考えることは、テーラワーダではしない。




【ウ・コーサッラ長老とのQ&A】


摂色分別についての講義のあと、講義内容とはまたべつに、いろんな質疑応答がありました。


Q1,(Yさんの質問)

周囲に怒りっぽい人がいると、どうしてもそうした人々の影響を受けてしまいがちなのですが、どうすればいいでしょうか?

A1,(長老の御答え)

たしかになんらかの影響を受けることはあるかもしれませんが、他の人がどうであろうと巻き込まれずに、慈悲の心で接し、智慧の心で正しい心を生じさせることも人間にはできます。
他の人がどうであろうと、巻き込まれないようにしてください。



Q2,(あつしの質問)

歎異抄に、自分が何か良い心が起こり良い行為ができるのも、過去世の善業の影響の結果であり、自分に何か悪い心が起こり悪い行為をしてしまうのも、過去世の悪業の影響の結果だということが言われている箇所があります。
このことは、テーラワーダ仏教の観点からすると、どうなのでしょうか?


A2,(長老の御答え)

習慣のことを言っているのだとすれば、それ自体は問題ないし、間違ってはいません。
ただし、決定論になってしまうと、邪見になります。
習慣の影響は強いけれど、瞬間瞬間では選択が可能だし、決定論ではない、というのがテーラワーダ仏教の立場です。



Q3,(新しい参加者の方からの質問)

本を読んでいたときに、ブッダは来世のことを考えるなと言ったと書いてありました。
もしそうならば、輪廻を説くのは矛盾していないでしょうか?



A3,(長老の御答え)

ブッダは対機説法をされています。

その場合もその人に合わせて「来世を考えるな」とは言っていますが、だからといって「来世がない」と言っているわけではありません。

輪廻から脱することを目的とするのが仏教であり、ブッダ自身そのように言い、悟ったときも輪廻の原因を滅したということを述べました。

人生において、すべて業が原因であり、偶然はない、というのが仏教の教えです。

そのことを否定することが邪見であり、邪見には大きく二つ、永遠の魂があるという見解(常見)と、現代人に多い見解ですが、死んだら終わりという見解(断見)があります。

この両方ともが邪見だと仏教では説かれます。



Q4,(Tさんの質問)

なぜ常見、つまり真我があるという見解・永遠の魂があるという見解はいけないのでしょうか?そのデメリットは何なのでしょうか?


A4,(長老の御答え)

たしかに、断見に比べると、常見はそんなにデメリットがない場合も多いです。

常見は、一応、行為に報いがあるという見解と一緒になっている場合も多いので、死んだら終わりだという刹那的な生き方につながりやすい断見に比べれば、それほど問題がない場合も多いです。

しかし、断見は比較的簡単に取り除きやすいのに対し、常見はなかなか取り除かれにくいということが言えます。

真我があると考えると、輪廻から解脱しようという思いが起こりにくいということも言えます。

断見であっても、死んだら終りと思っていても、悪いことはせずに立派に生きている科学者なども多いので、一概にどちらが悪いとは言えませんが、断見に比べれば常見の方が、倫理的には問題がない場合が多いけれども、取り除きにくいし、悟りにつながらないということが指摘できます。



Q5,(あつしの質問)

遊行経の中に、仏法僧に信心を起こして帰依し、戒めを守る人は、鏡を見るように自分の死後がどこに行くのかをわかることができ、決して悪いところに生まれ変わることはない、という内容の箇所があったのですが、このことと預流果はぜんぜん違うことなのでしょうか?


A5、(長老の御答え)

預流果は悟りの第一段階で、煩悩が取り除かれ、もはや意識しなくても悪いことを自然としなくなる、悪いことをできなくなる状態です。

預流果に達するためには、戒・定・慧をきちんと実践しなくてはなりません。

遊行経のその箇所は、不壊浄、聖者の確立した仏法僧戒に対する信のことです。
普通の凡夫が信じるレベルとは違います。 
ある人が仏法僧に対する信があり戒を守っていようとそれは悟りとは別問題で普通に信心があるレベルです。

ただ単に仏法僧に信心を持っただけで悪いところに生まれ変わらないというならば、テーラワーダ仏教の国の人は皆悪いところに生まれ変わらないということになってしまいますが、そんなことはありません。
戒めを守っていれば、因果の道理によって、悪いところには生まれ変わらず、良いところに生まれ変わるのは当然のことです。
しかし、これは預流果とは違うことです。

凡夫は信や戒によって来世で善い世界に生まれても悟らない限り悪業が転生のとき結果を与えれば悪趣に落ちてしまいます。

経典は、一部分だけ切り取ってみるのではなく、全体を通して、その意味を見ていかないと、誤解してしまうことがあります。

全体を見て、部分を解釈することが大事です。


(文責・あつし)
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2010年04月12日

デニヤーイェ長老とのQ&A

先日、デニヤーイェ長老にいろんな質問をさせていただきました。
その時のメモをあとで思い出して作成してみました。
続きを読む
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ティボットゥワーウェ大長老 茶話会

4月1日から、スリランカ仏歯寺の大管主・ティボットゥワーウェ大長老が、福岡に二日間滞在されました。
その折、私たち福岡ダンマサークルのメンバーも、ティボットゥワーウェ大長老とデニヤーイェ長老の格別のご配慮により、福岡セントラルホテルにて、茶話会の機会をいただきました。

以下のものは、その時の大長老との質問とお答えのメモです。
(録音ではなく、あとでメモをもとに思い出して書かれたものです。)
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