2010年04月27日

4月25日 勉強会

4月25日の勉強会は、アビダンマッタサンガハの第六章「摂色分別」(仏教の物質論)の箇所でした。

ウ・コーサッラ長老の講義は、本当に明晰でわかりやすく、自分ひとりで読んでいると難解で味気なかったアビダンマが、長老に質問しながら勉強すると血の通ったわかりやすいものになってくるので不思議なものです。

今回の勉強会の会場だった「サンレイクかすや」は、粕屋町にあるまだ新しい立派な施設でした。
すぐ近くには駕与丁(かよいちょう)公園があります。
昼休みには長老を囲み、窓の外の風光明媚な駕与丁池を眺めながら、和気あいあいと食事会をしました。

常連のメンバーの他に、新しく今回の勉強会に参加してくださった方が三名もいました。
中には他県から参加してくださった方もおられました。

とても楽しい、有意義な勉強会でした。



(勉強会の内容)

仏教においては、あらゆる事象を、名(精神)と色(物質)の二つに区分する。

そのうち、名は、心と心所に区分される。

色のみ眼で見ることができる。
心と心所はブッダの智慧の力でしか明瞭に見ることはできない。

アビダンマでは、色(物質)の種類は、28種類に区分される。

そのうち、実際に存在する物質を完色と呼び、18種類が完色に区分される。
それ以外の10種類のものは、実在しないが、完色の状態を色として表現したものである。



【完色】


完色は、大種・浄色・境色・性色・心色・命色・食色に区分される。

・ 大種とは、地・水・火・風の四種類。
地は物質の基礎の働き。
水は物質を引き寄せたりつなぐ働き。
火は熱の働き。
風は、たとえば背筋を伸ばしたり縮めたりする、体を支える動きの働き。
大種は原子ではなく、他の眼耳鼻舌意などをつくっているわけではない。


・ 浄色は、目・耳・鼻・舌・身。

・ 境色は、色、声、香、味、触。
ただし、触は、大種の中の地・火・風の三つのことである。
(地・火・風の他に触はない)

・ 性色は、女性、男性。

・ 心色とは、心が生じる時に依存する物質のこと。現代人にとってはわかりやすく脳と言っても良い。

・ 命色は、物質の寿命を司る色、命根。

・ 食色は、滋養素。


風は意識によって起こる。
心が風の物質を生じさせる。
大体、中国の気やチベットのルンもそのようなものを現しているとは言えるのかもしれない。
しかし、テーラワーダでは風を操ることを意識的に修行するということはしない。しかし、神通力が風を起こすことはあるとはしている。



【非完色】


非完色は、分断色・表色・変化色・相色に区分される。


・ 分断色とは、虚空界のこと。
物質と物質の隙間のことであり、物質の間の空間を指す。
べつに何か実体として虚空界という物質があるわけではない。

時折、西洋のオカルトなどでは、アカシック・レコードなどと言って、この虚空界に記憶があって、それに接続できればいろんな記憶を取り出すことができるという話があるけれど、テーラワーダから言えばそのようなことはない。
そうした発想は虚空界を何かの実体や物質と勘違いしたことから生じたと推測できる。


・ 表色とは、身表と語表。
つまり、意思表示としての言葉や体の行為で、善悪ともに含まれる。

・ 変化色とは、表色の身表と語表に加えて、色軽快性・色柔軟性・色適業性の五つ。
色軽快性・色柔軟性・色適業性とは、いろんな原因によって、完色18が、軽やかになったり、柔軟になったり、仕事をしやすくなったりした状態を、そのような色ができていると表現していることである。

・ 相色とは、色積集・色相続・色老性・色無常性。
生命の肉体物質の生・住・滅を、色として表現してある。
その中の、生を、認識器官が完成するまでを色積集と呼び、完成してから死ぬまでを色相続、住を色老性、滅を色無常性と呼んでいる。



【さまざまな色の区分の仕方】

色にはさまざまな区分の仕方がある。

・ 内色(浄色)・外色(浄色以外)

・ 基色(浄色と心色)・非基色

・ 門色(浄色と表色)・非門色 (身門と語門という意味で門)

・ 根色(浄色と性色)・非根色

・ 麁色(浄色と境色)・細色   (麁とは粗いという意味よりも明らかという意味)

・ 執受色(浄色と心色と性色と、声色を除く境色と水色と食色と分断色)・非執受色  (業生色=執受色 業生の色、渇愛・悪見によって所縁とされる。)

・ 有見色(境色の中の色色のひとつだけ)・無見色

・ 取境色(浄色)・不取境色   (対象をとるかどうか)

・ 不簡別色(声色を除く境色と水色と食色)・簡別色   (他のものと切り離せないかどうか)



【色の特徴】


すべての色は、以下のような特徴を持つ。

無因 (因=貪瞋痴・不貪不瞋不痴、物質はそうした因を持たない)

有縁 (業、心、時節、食のいずれかの縁による)

有漏 (貪瞋痴、欲の対象)

有為 (業や心がつくる。無為=涅槃とは異なる)

世間 (固執の蘊(取蘊)。出世間ではないということ)

欲界 (欲界・色界・無色界の中で、欲界に存在するのが物質(色)である)

無所縁 (心・心所の所縁をとらない)

非所断 (不善煩悩のように捨断できない)



【人間の身体を生じさせるもの】

業・心・時節・滋養素の四つが、人の身体を生じさせる。

時節とは、寒暑など、自然の法則。

滋養素(食色)は、何かのものを食べた時に、自分の体の中の滋養素とそのものの中の滋養素が合わさって栄養となり、人の肉体をつくるとテーラワーダでは考えられている。

例として、病気を考えるとわかりやすい。

病気は、この四つの要因によって起こるとアビンダマでは考えられる。

よく新興宗教などでは、何でもかんでも病気は業によって生じると説いたり、あるいは心によって病気になると言う場合があるが、必ずしもそうとは言えない。

あまりにも暑かったり寒かったり、あるいは食べ物に毒が入っていれば、業や心がどうであろうと病気になる場合はある。

業によってなんらかの容貌・姿形に生れつく。 
心によってその容貌から、より穏やかな表情になったり厳しい表情になったりする。
また、心によって身体が軽やかに元気になったりする。
適した服装をしていると、時節によって身体が軽やかで元気になるとも言われている。
滋養素によって身体が軽快で適業の状態になる場合もある。

美しい容姿に生れたのに性格が悪い人というのは、善業が影響を与えて美しい姿に生れついたと推測されるが、生れた後の周囲の環境や生前のその他の悪業の影響で現在はそのような性格になっていると考えられる。

・ 業生色 不善12 大善8 色善5=25 の過去の業
結生心の生起から、生・住・滅の瞬間瞬間に生じる。

・ 心生色 無色界異熟心と二つの前五識を除く75
第一有分心から生・住・滅の生にのみ生じる。(結生心、阿羅漢の死心、住・滅を除く)

・ 時節生色 熱、火界
時節生色がずっと生じているから、物は生じる。
心が17回生滅する間に、物質は一回生滅する。
時節生色は、生・住・滅の住の時に物質を生じさせる。
時節とは、自然法則である。


・ 滋養素 食 食べた後、内と外の滋養素が混ざる。

病気などを
この四つの要素の、どれかひとつだけに偏って原因を決め付けて考えることは、テーラワーダではしない。




【ウ・コーサッラ長老とのQ&A】


摂色分別についての講義のあと、講義内容とはまたべつに、いろんな質疑応答がありました。


Q1,(Yさんの質問)

周囲に怒りっぽい人がいると、どうしてもそうした人々の影響を受けてしまいがちなのですが、どうすればいいでしょうか?

A1,(長老の御答え)

たしかになんらかの影響を受けることはあるかもしれませんが、他の人がどうであろうと巻き込まれずに、慈悲の心で接し、智慧の心で正しい心を生じさせることも人間にはできます。
他の人がどうであろうと、巻き込まれないようにしてください。



Q2,(あつしの質問)

歎異抄に、自分が何か良い心が起こり良い行為ができるのも、過去世の善業の影響の結果であり、自分に何か悪い心が起こり悪い行為をしてしまうのも、過去世の悪業の影響の結果だということが言われている箇所があります。
このことは、テーラワーダ仏教の観点からすると、どうなのでしょうか?


A2,(長老の御答え)

習慣のことを言っているのだとすれば、それ自体は問題ないし、間違ってはいません。
ただし、決定論になってしまうと、邪見になります。
習慣の影響は強いけれど、瞬間瞬間では選択が可能だし、決定論ではない、というのがテーラワーダ仏教の立場です。



Q3,(新しい参加者の方からの質問)

本を読んでいたときに、ブッダは来世のことを考えるなと言ったと書いてありました。
もしそうならば、輪廻を説くのは矛盾していないでしょうか?



A3,(長老の御答え)

ブッダは対機説法をされています。

その場合もその人に合わせて「来世を考えるな」とは言っていますが、だからといって「来世がない」と言っているわけではありません。

輪廻から脱することを目的とするのが仏教であり、ブッダ自身そのように言い、悟ったときも輪廻の原因を滅したということを述べました。

人生において、すべて業が原因であり、偶然はない、というのが仏教の教えです。

そのことを否定することが邪見であり、邪見には大きく二つ、永遠の魂があるという見解(常見)と、現代人に多い見解ですが、死んだら終わりという見解(断見)があります。

この両方ともが邪見だと仏教では説かれます。



Q4,(Tさんの質問)

なぜ常見、つまり真我があるという見解・永遠の魂があるという見解はいけないのでしょうか?そのデメリットは何なのでしょうか?


A4,(長老の御答え)

たしかに、断見に比べると、常見はそんなにデメリットがない場合も多いです。

常見は、一応、行為に報いがあるという見解と一緒になっている場合も多いので、死んだら終わりだという刹那的な生き方につながりやすい断見に比べれば、それほど問題がない場合も多いです。

しかし、断見は比較的簡単に取り除きやすいのに対し、常見はなかなか取り除かれにくいということが言えます。

真我があると考えると、輪廻から解脱しようという思いが起こりにくいということも言えます。

断見であっても、死んだら終りと思っていても、悪いことはせずに立派に生きている科学者なども多いので、一概にどちらが悪いとは言えませんが、断見に比べれば常見の方が、倫理的には問題がない場合が多いけれども、取り除きにくいし、悟りにつながらないということが指摘できます。



Q5,(あつしの質問)

遊行経の中に、仏法僧に信心を起こして帰依し、戒めを守る人は、鏡を見るように自分の死後がどこに行くのかをわかることができ、決して悪いところに生まれ変わることはない、という内容の箇所があったのですが、このことと預流果はぜんぜん違うことなのでしょうか?


A5、(長老の御答え)

預流果は悟りの第一段階で、煩悩が取り除かれ、もはや意識しなくても悪いことを自然としなくなる、悪いことをできなくなる状態です。

預流果に達するためには、戒・定・慧をきちんと実践しなくてはなりません。

遊行経のその箇所は、不壊浄、聖者の確立した仏法僧戒に対する信のことです。
普通の凡夫が信じるレベルとは違います。 
ある人が仏法僧に対する信があり戒を守っていようとそれは悟りとは別問題で普通に信心があるレベルです。

ただ単に仏法僧に信心を持っただけで悪いところに生まれ変わらないというならば、テーラワーダ仏教の国の人は皆悪いところに生まれ変わらないということになってしまいますが、そんなことはありません。
戒めを守っていれば、因果の道理によって、悪いところには生まれ変わらず、良いところに生まれ変わるのは当然のことです。
しかし、これは預流果とは違うことです。

凡夫は信や戒によって来世で善い世界に生まれても悟らない限り悪業が転生のとき結果を与えれば悪趣に落ちてしまいます。

経典は、一部分だけ切り取ってみるのではなく、全体を通して、その意味を見ていかないと、誤解してしまうことがあります。

全体を見て、部分を解釈することが大事です。


(文責・あつし)
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2010年04月12日

デニヤーイェ長老とのQ&A

先日、デニヤーイェ長老にいろんな質問をさせていただきました。
その時のメモをあとで思い出して作成してみました。
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ティボットゥワーウェ大長老 茶話会

4月1日から、スリランカ仏歯寺の大管主・ティボットゥワーウェ大長老が、福岡に二日間滞在されました。
その折、私たち福岡ダンマサークルのメンバーも、ティボットゥワーウェ大長老とデニヤーイェ長老の格別のご配慮により、福岡セントラルホテルにて、茶話会の機会をいただきました。

以下のものは、その時の大長老との質問とお答えのメモです。
(録音ではなく、あとでメモをもとに思い出して書かれたものです。)
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2010年04月01日

心がスーッとなるブッダの言葉

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5 心が軽くなります。
5 これから読んでほしい
5 すばらしい本です!
5 最上の夜話
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とても平明な言葉で、人生のいろんな事柄への心がけについて、
わかりやすく書かれており、私にとって人生座右の書となりました。

読むたびに、本当に心が「スーッと」なります。

無常、無我、苦など、ただ単語だけにするとちょっと難しく思える言葉が、
こんなにも明晰でわかりやすく、人生をスーッとさせてくれるのかと、
瞠目させてくれる好著です。
posted by 管理人 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 本のご紹介