2010年05月26日

5月23日 勉強会

5月23日の勉強会は、デニヤーイェ長老が御講師でした。
大雨にもかかわらず、常連メンバーだけでなく新規参加の方まで来てくださり、和気あいあいとした楽しい勉強会となりました。

午前中は、出入息の瞑想や、慈悲の瞑想、歩き瞑想。

午後は、「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)についての講義と、ダンマパダの第15〜20偈を勉強しました。

昼休みには、みんなそれぞれに食べ物やお菓子を持ち寄って、楽しいひとときを過ごしました。

勉強会の会場の少童神社には大きな楠木があるのですが、雨にもかかわらず鶯がやってきて、美しい声で鳴いていました。
昔の人の中には鶯の音色を「法を聴け、法を聴け」と聴いた人もいたそうです。
いつものことながら、デニヤーイェ長老の仏法についての解説は本当に目からウロコのことばかり。
あらためて、もっと瞑想をがんばり、仏教を勉強したいと思う一日でした。


【勉強会の内容】

※ A,「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)について

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/butsu-hou-toku.html


ダンマ・ワンダナー dhamma vandanā

ワンダナーとは、礼拝するという意味。
ダンマの特徴を思い出して礼拝するのが、ダンマ・ワンダナー。


1、 スワッカートー・バガワター・ダンモー svākkhāto bhagavatā dhammo
(善く、正しく説き示された教え)

バガワターは、世尊によって、
ダンモーは、ダンマ、法は、
という意味。

スワッカートー(svākkhāto)は、

su + akkhāto 

で、suは、正しく、うまく、よく、とい意味。
Akkhātoは、説かれた、説かれている。
という意味。

仏教の特徴として、最初も正しく、真ん中も正しく、最後も正しく説かれる、という特徴があります。
説法する時に、お釈迦様は常に、悟りという目的のために、貪瞋痴から離れる教えを説いたということです。

Suがつく言葉では、たとえば他に、スジャータ(sujāta)、つまり良く生れた、という意味の名前の、有名な方もいますね。
Suがつくと、善いという意味です。


2、 サンディッティコー sandiṭṭhiko
(実証できる教え)

実証できる、体験できる、といった意味です。

Sandiṭṭhikoという言葉をもっと詳しく見るならば、

saṃ (うまく) + diṭṭhiko (見る)

という言葉からできています。

つまり、

1、 うまく見ることができる
2、 秘密が無い、誰でも実際に見ることができる

という意味です。

お釈迦様の生きていた時代、多くの宗教の師は、自分の知っていることの一部分は弟子に教えないという風習がありました。
なぜならば、教えてしまうと弟子と自分が対等になってしまうという恐れがあり、自らの権威や利益のためにも秘密を保っておくということがあったからです。
しかし、お釈迦様は何の秘密もなく、すべて教える、という教え方をしたので、当時とても画期的でインパクトがありました。


3、 アカーリコー akāliko
(普遍性があり、永遠の教え)

a は 否定の意味。
Kālikoはさらに、kāla と ika に分けることのできる言葉で、
Kāla は 時間の意味。 
Ikaは、英語でいうと、副詞につく”~ly”みたいな言葉です。

つまり、akāliko
= untimely

ということになります。

時間によって左右されない、どれだけ時が経っても変わらない教え、真理であるということです。

大乗仏教には五時教判(注1)や末法思想(注2)という考え方がありますが、テーラーワーダ仏教においては、基本的にはそうしたことは説かれず、ダンマのレベルは下がらないと説かれています。
ただし、時代によって瞑想に興味を持つ人が多くなったり少なくなったりするということは言われますが、ダンマはどれだけ時が経っても常に有効であり普遍的な真理だと説かれています。

(注1) 天台宗などで言われるもので、釈尊は悟って後に、最初は華厳経の教えを説いたが、よく理解するものがなかったために、方便として阿含経の教えを説き、ついで方等経典、般若経典、最後に法華経と涅槃経が説かれたとし、法華経が最高の教えだとする経典整理の仕方。
(注2) 釈尊が教えを説き始めて千年間(あるいは五百年間)を正法、次の千年間を像法、その後の一万年間を末法、そののちは仏法が滅びるとする歴史観。正法の時代と比べて、徐々に人間の機根が劣っていくという下降史観である。


4、 エーヒパッシコー ehipassiko
(「来たれ見よ」と言える確かな教え)

来て見て、と見せることができる教えということです。

Ehi 来て
Passa 見て

他の宗教は、一般的に、信じてください、ということを言います。
しかし、仏教は、信じるものではなく、確かめてください、来て確かめてみてください、と言います。

たとえば、タイでは、よく在家の方が一時的に出家して、寺院で仏教の生活を体験します。
そのために、とても在家の人とお寺の関係が深く、親しいそうです。
実際に仏教を体験する機会が多くあることは良いことですね。

もっと言うならば、仏教においては、最初のうちは戒律はありませんでした。
お釈迦様は、35歳で悟りを開いてから55歳までの二十年間、一日に二時間しか睡眠をとることなく、教えを説き続けました。
その努力で、それまでバラモン教の国だったインドが、仏教の国になりました。
55歳になった時に、弟子の数も増え、問題を起こす者もでてきたので、戒をつくることになりましたが、それまでは、どういう目的で出家したかを思い出すお経をみんなで唱えることの他には、これといった戒めはありませんでした。
実際にサンガで生活することが、まずは重視されていたのです。


5、 オーパナイコー opanayiko
(実践者を涅槃に導く教え)

opanayikoは、

upa (まで) + naya (行かせる、持っていく) + ika

で、つまり解脱まで導かせる教え、ということです。


6、 パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー paccattaṃ veditabbo viññūhī
(賢者たちによって各自で悟られるべき教え)

paccattaṃ  個人的に
vedhitabbo 知るべきである 
viññūhī  賢者、賢い人

お釈迦様は、悟りまでの道をきちんと説明することができるし、心をパワーアップする方法を教えることはできますが、誰かを悟らせることはできないし、誰かの心をパワーアップすることもできない、努力するのは自分自身ですよ、ということです。

馬を水のところに連れて行くことはできるけれども、水を飲ませることはできない、ということはよく言われますね。

仏教は、悟るまでの道をきちんと説明してくれていますが、各自、自分自身が、それぞれ個人的に、実際に自分で修行して努力して、その成果を自分自身で得るしかないという教えです。


最後の偈文

jīvita pariyantaṃ saraṇaṃ gacchāmi
(私は生涯帰依します)

この箇所は、

jīvitam yāva nibbānan saraṇaṃ gacchāmi
(私は悟りに達するまで帰依します)

という表現も使います。

先の方の文章で、jīvitaは人生、pariyantaṃは最後まで、という意味なのですが、このjīvitaを悟りに達するまでの輪廻の人生すべてと解釈するならばいいのですが、ただこれだけだと、今の人生は仏法僧に帰依しても、次の人生はどうなるの?ということにもなりかねません。
後の文章の方が、正確にわかりやすいかもしれませんね。

悟りに達するまで、仏法僧に、この人生、および輪廻の中のどの人生も、ずっと帰依しますということが仏教においては正しいあり方です。


※ B、「ダンマパダ」 第十五〜二十偈 解説

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf


第十五偈
「ここに悩む、あとで(死後にも)悩む、悪をなすものは両方で悩む、
自分の汚れた行為を見て、彼は精神的にも、肉体的にも悩む。」

この偈は、もともとは、マガダ国のアジャータサットゥ王子について言われたものでした。
父のビンビサーラ王を死に追いやり、苦しむアジャータサットゥ(アジャセ)王子について述べられたものです。

Socatiとvihaññatiは、前者が精神的な苦しみで、後者は肉体的な苦しみということです。


第十六偈
「ここで喜ぶ、あとで(死後も)喜ぶ、善をなした人は両方で喜ぶ、
自分の清らかな行為を見て、彼は喜び、喜び満足する。」

この偈は、ダンミカというある在家の信者について述べられたものです。
彼は、お釈迦様の教えを聴き、きちんとした生活を送っていました。
心を清くするという目的をしっかり持って生きていました。
年をとっても悩みなく過ごしていました。

たまたまお坊さんたちがやってきた時に、読経してもらっていたら、ダンミカのところに神々がやってきたのが、ダンミカにのみ見えました。
神々は、ダンミカが多くの功徳を積んだ人なので、死後は自分たちの住む神々の国にやって来てくれるようにダンミカに言いにきたのですが、ダンミカは神々がお経を聴くことの邪魔になるので、「やめなさい」と言いました。
読経をしていたお坊さんたちはびっくりして、自分たちに言われたものと思い、お釈迦様のところに戻ってその顛末を話すと、お釈迦様は、あなたたちに言ったのではなく、こういうわけでダンミカは神々に言ったのだよ、と説き明かし、この偈をおっしゃいました。


第十七偈

「ここで悩み、あとで(死後にも)悩み、悪をなすものは両方で悩む。
“私は悪いことをした”と、悪趣に行ってさらに多く悩む。」

刑務所の人などは、犯罪を犯した時には悪いことをやっているという思いも自覚もなくても、あとから自覚ができてくると、このような気持ちでしょうね。

悪をなした人は、あとでその結果を受けます。

ただし、悪い結果から、ある程度人間は離れることもできます。

人間は、どうしても間違いは起こります。

しかし、仏教では、後悔することも悪いと説きます。
後悔をすると、前向きに動けなくなります。

もし、その行為をした時は悪とわからなくても、あとでわかったのならば、後悔はしないで、

1、 未来は二度とその行為をしない。もう一回やらないことを選択する。
2、 その悪かった行為の反対の、良い行為を行う。

という二つのことを心がけ、実行すべきです。

たとえば、親に口答えをして反抗し、あとで悪かったと思ったら、もう一回はやらないことを選択し、できるだけ親を喜ばせることを行っていくことです。

人生は、前向きにいくしかありません。
そのためには、

・ 後悔しない。
・ 悪かった行為の反対の良い行為をする

の二つが大事です。


第十八偈 

「ここで喜び、あとで(死後に)喜び、善をなした人は両方で喜ぶ。
“私は善を行った”と喜び、善趣に行ってさらに多く喜ぶ。」

この第十七、十八偈の善趣と悪趣というのは、アビンダマで言えば、善趣は天・人間であり、悪趣は地獄・餓鬼・畜生といったことになりますが、必ずしもそれだけに限らず、今よりも良い所と、今よりも悪い所、と理解すれば良いです。

同じ人間界でも、今よりも悪い境遇になれば悪趣に行ったということですし、今よりも善い境遇になれば善趣に行ったということです。
自分の行為で、悪趣ではなく、善趣に行くように心がけねばなりません。

ちなみに、ここで喜びを意味することばは、nanda(ナンダ)で、お釈迦様の弟子のアーナンダは喜びを与える人という意味の名前、お釈迦様の弟のナンダはこのナンダで喜びという意味の名前です。


第十九偈

「もし文献に関してたくさん話しても、実践する人にならないで、放逸な人であれば、
牛のお世話をする人が他人の持ち物の牛の数を数えるようなもので、沙門性の結果(仏教修行者の分け前、解脱)を得ることはない。」

これは、お釈迦様が出家者に対して述べた偈です。

たくさん知識があったり、本を読んでいても、実践しなければ意味が無いというのが仏教の教えです。
仏教は、実践の教えです。


第二十偈

「もしも少なく文献(教え)について語っても、ダンマをダンマに従って実践して、
貪瞋痴を捨てて、正知があり、よく清くした心があり、
ここに(今生に)、また後世に執着がないならば、彼は沙門性の結果(解脱)を得る人です。」

これは、出家者の特徴を述べています。
ダンマを実践し、貪瞋痴を離れ、良いサティ(正知)を持っている、
今世と来世を強く執着することなく、沙門性の結果を得る。
これが本当の出家者の特徴です。

本当の仏陀の教えかどうか、各自が自分で確認する方法があります。
その確認する方法とは、その教えが、貪瞋痴を減らせる教えかどうか、ということです。
仏教は、貪瞋痴を減らす道を教えるものです。
増える道だったら、仏教ではないということです。


※ C,瞑想について

(出入息の瞑想について)

息をする時に、鼻の感覚に集中してください。

(慈悲の瞑想について)

「生きとしいけるものが幸せでありますように」という一文が、慈悲の瞑想の鍵となる一文です。
この一文の中に、他の慈悲の瞑想のフレーズのすべても入っています。
もっと細かく実践したい人は、慈のみでなく、悲・喜・捨を育てるフレーズや、対象も私・私の親しい人々や、さらに詳しくいろんな形で念じても良いです。
しかし、他の悲・喜・捨を育てるフレーズや、私・私の親しい人々、といったすべての事柄は、この「生きとし生けるものが幸せでありますように」という一文には含まれています。

慈悲の瞑想を行うと、その瞑想の対象の人が幸せに変わるかどうかというと、必ずしもそうなるわけではありませんね。
しかし、慈悲の瞑想を行えば、その瞑想を行う人の自分自身の感覚には、変化がすぐに現われます。
相手に対する感覚や気持ちが変わるのです。

慈悲の瞑想を行うと、
自分の見方が変わってきますし、
自分が変化を獲得します。

慈悲の瞑想に慣れると、怒りたくなくなってきます。
怒るというものが心の中にあるから、人は怒るものが外にあったときに、怒るものとして見えてきます。
しかし、自分の心の内側に怒るというものがなければ、怒るものが外にあっても、怒るものに見えてこずに、その物事がよく観察できるようになります。
これが、慈悲の瞑想の大きな結果です。

慈悲の心を育てることが、人間としての価値ですし、良いところに生まれ変わる自信も生じてきます。
食べ物などの幸せは一時的なものですが、慈悲の幸せはずーっと続きます。


(瞑想全般について)

人は考えることに慣れていますし、かつ、世の中から常に考えるようにさせられています。
ですので、思考を止めること、つまり瞑想というものはけっこう難しいのです。

しかし、お釈迦様は、こんなたとえ話をされています。
赤ちゃんが、歩けるようになるために、何度も、ちょっと立ち上がって歩こうとして、また横になって休んで、また歩こうとして、繰り返し行います。
人が瞑想に慣れるのも、このようなものです。

瞑想も、毎日行い、心、身体、行為が瞑想になれることが大事です。
毎日、十五分ずつでも、瞑想を実践してください。

瞑想において、四つの邪魔(マーラ)があるといいます。
体の痛み、妄想、外からの音・邪魔、眠気、の四つです。
この四つに負けぬように、瞑想に慣れるまで努力してください。


【デニヤーイェ長老とのQ&A】

Q,(あつしの質問)

よく、成功哲学などで、積極的な思考を持っていると成功しやすくなる、ありありと良いイメージを思い描いて、明るい心を持つと人生はうまくいく、ということが述べられているのですが、仏教の観点から言えば、こうした意見はどうなのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

体には、心の状態の結果がすぐに現われるので、明るい心を持っていると、表情が明るくなって、元気で、その結果として物事がうまくいくということはありますね。
ですから、明るい心を持つことは、仏教でもとても大事にします。

しかし、何をもって明るいとするか、明るさの定義が、文化や社会によって違います。
たとえば、ある文化や社会では、物質的な生活を楽しみ、物質を享受するのが、明るいとされているかもしれません。
しかし、それはずっと続くものではなく、変化していくものです。
ですので、バランスが大事で、明るい心と、無常を観察する智慧などのバランスが大切なことです。

ただ、お釈迦様の時代に、こんな御話があります。
ダイバダッタが、お釈迦様に対して、もっと戒律を厳しくするように要請したことがありました。
しかし、お釈迦様は、悟るという目的に関係ないところで、むやみに厳しい戒律をつくることはしませんでした。
目的に関係ないところでがんじがらめになって陰鬱になるようなことはせずに、明るくのびのびと行うのが仏教であるということは言えるかもしれません。


Q,(Kさんの質問)
慈悲の瞑想の時に、イメージをふくらませて唱える方が良いのでしょうか?
それとも、ことばだけを追って唱える方が良いのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

どちらも良いことで、最初にイメージを持ち、徐々にことばで念じるようになっていけばいいです。
イメージを持つこともとても良いことです。

しかし、「私の嫌いな人々が幸せでありますように」や「私を嫌っている人々が幸せでありますように」というフレーズは、具体的にイメージを膨らませてしまうと、怒りが自分の心に生じてしまうかもしれません。
怒りは慈悲の反対で、かえってよくない結果を生じてしまいます。
ですから、この二つの対象を念じる時は、イメージをふくらませず、言葉だけによって唱えるようにしてください。



Q,(Sさんの質問)

仏典を読んでいたら、悟った人にはなんの願いも希望もない、ということが書かれた文章があったのですが、悟りは願うことではないのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

悟りは自分の内側で発見するものであり、自分以外の何か神や仏陀などが上から与えるものではありません。
願ってお祈りしたら、上から与えられるというようなものではありません。
ですので、悟りは願うというよりも、ダンマを実践して、発見するもの、ということです。


Q,(あつしの質問)

大乗仏教では、よく菩提心ということが言われていて、仏になることを願うことが大事だと強調される場合があるのですが、テーラワーダ仏教ではどうなのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

テーラワーダ仏教では、仏(=ブッダのこと)・辟支仏(びゃくしぶつ=師なくして独自にさとりを開いた人)・阿羅漢(=元々は「尊敬されるべき修行者」の意)・菩薩(=元々は「悟りを開く前の修行時代の仏陀」の意)の順番でした。

しかし、大乗仏教では、辟支仏と阿羅漢は自分だけの悟りを求めて利他を求めない者であり、利他を求める菩薩の方が格上であるという位置づけがされるようになり、仏・菩薩・辟支仏(=縁覚)・阿羅漢(=声聞)という順番になり、菩薩が仏をめざす者として二番目に来た、ということになりました。

ただし、テーラワーダ仏教においても、誰でも仏や阿羅漢になる可能性はないわけではないので、菩提心を起こす(仏になることを願う)ということが間違いだというわけではありません。

しかし、通常の場合、いきなり仏や阿羅漢を目指すということよりも、まずは地道に心を清くすることを目的にした方がいいかもしれませんね。

(以上)

(文責・あつし)
posted by 管理人 at 19:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 勉強会

2010年05月18日

第五回スマナサーラ長老福岡講演会 

5月15日、福岡市の「アミカス」で、スマナサーラ長老の講演会がありました。
テーマは「日常生活で役に立つブッダの智慧」。
大変わかりやすく、ためになる御法話でした。

今回の参加者は100〜150名ほど。
長老の御法話はユーモアも効いていて、会場からはときどき楽しそうな笑い声もあがり、皆様、うなずきながら聴聞されていました。
瞑想の時間には、会場の皆様全員、試行錯誤しながら真剣に取り組んでいる様子が伝わってまいりました。
質疑応答の時間にも活発な質問が会場から出ました。

昼休みの時間にはSさんのご自宅で、スマナサーラ長老とデニヤーイェ長老への食事のお布施があり、今回講演の企画運営に携わったスタッフも一緒に食事させていただきました。
とてもおいしい料理の数々で、すばらしいひとときでした。


@「日常生活で役に立つブッダの智慧」 講演記録メモ
(この記録メモは、あとでノートを元に思い出して作成したものです。)


仏教には、二つの側面があります。

1、 この世でいかに成功をおさめて、幸せになるか。
2、 死後もいかに成功をおさめるか。

このように言うと、他の宗教も、この世の幸せやあの世の幸せを教えているので、同じではないかと言う人がいます。

しかし、仏教は、その教えの中身が違います。
他の宗教は、たいてい、神や他人に頼って助けてもらうことを説き、祈りや加持祈祷を説きますが、仏教はそうしたことは説きません。
他の多くの宗教は、死後はどうするのか、結局助けくれるだろうというだけで、何もしていないのです。

たとえば、西洋は民主主義を説きますが、その宗教には民主主義的な要素はありません。
タテの命令と服従の関係でできています。

しかし、仏教は、本当に革命的な、タテの支配をなくした世界です。
生命はいろいろ差があっても、平等だということを発見し、教える宗教なのです。
生きるとは何か、徹底して調べて、明らかにした教えなのです。


仏典の中で、お釈迦様は、当時インドに伝わっている神話を踏まえて、以下のような話をされました。

その神話では、神々が阿修羅と戦ったときに、帝釈天が兵士達に、もし戦いでくじけそうになったら、まず水天やいろんな神々の旗を見なさい、それが見つからなければ帝釈天の旗を見なさい、そうすれば勇気が出て阿修羅たちと戦えます、ということを言ったとされています。

しかし、お釈迦様はそのことを踏まえて、よく帝釈天はそんなことが言えるものだ、帝釈天も神々も本当はおびえっぱなしで、恐怖におびえている、貪瞋痴の汚れた心から免れていない、そのような神々にすがっても、あてにならない、ということを説かれました。

お釈迦様は、誰もあてにするなよ、ということを言われました。

助けてあげる、という話は、あんまり信用しない方がいい。
そう言ってくる宗教や権力者というのは、人をコントロールしようとしているかもしれません。

たとえば、ギリシャの国家財政が最近破綻しましたが、日本の財政赤字も、国民ひとりあたり六百三十万円ぐらいだと言います。
小学生でも、自分の持っているお小遣いの範囲でものを買おうという、ちゃんとした計算能力があるのに、政府は好き勝手にこんなに借金をつくってしまって、それをあんまり皆なんとも言わずどうにも今までできなかったわけです。
私たちはこういう世界に生きているのです。

こうした世界に対して、

・ 自分の理性で、自由に自分で考える。一人一人が考えてしっかり、自分自身でがんばらなくてはいけない。
・ 誰も何もやってくれませんよ。
・ 生命の法則は、一人でがんばるようになっている。

ということを、お釈迦様はお説きになられました。

実際に、皆さん、自分で食事して、栄養を消化して、生きているわけでしょう。
誰かが食べ物を口まで運んで、代わりに消化してくれるわけではないでしょう。
他の人が食べて、私の腹がふくれるということはないでしょう。

客観的に世の中を見る。
人の話に軽率にのってはならない。
世の中は、人を管理しようとしてくる人や宗教に満ちている。
だから、自分自身でしっかり考えて生きる。
そうしたことが大事なのです。

しっかりと世の中を見ると、それぞれの生命は自分で生きているのです。

ですから、それならば、優しい人、本当に相手のことを思いやる優しさのある人がすべきこととは、どう生きるべきかを教えてあげることなのです。
人を助けることではなく、その人自身が自分で助かるように、どうすれば成功するか、こうすれば失敗しないよ、ということを教えてあげることです。

それが仏教です。


一方、タテの社会はマインドコントロールで、人を管理しようとします。

ポイントは、管理は成り立たない、うまくいかない、ということです。

生命は、根本的には、自由であるはずであり、独立できるはずなのです。

インドの昔の首相のネールは、インドにどれぐらいの数の問題があるかと問われて、当時のインドの人口の数を答えました。
つまり、人間ならばトラブル、と言ったわけです。

これは立派な観察ですが、では、なぜ人間ならば問題が生じるのでしょうか?

それは、管理する、管理される、ということによって生じるのです。

生命の憲法、宇宙の法則は、生命は平等であるべき、ということです。

法則は破れないのです。
ただし、法則をいじることはできます。

たとえば、宇宙に行く場合、そのまま宇宙空間では人はすぐに死んでしまいますが、地上と同じ環境を人為的につくって、大変な努力をして、宇宙飛行士は宇宙に行って帰ってきます。
これは、法則を破ったわけではありませんが、法則をいじっているわけです。
しかし、それほど大変な努力をして法則をいじるわりには、あんまり何か人類にとって良いことがもたらされているわけではありませんし、大変な苦労です。
それはともかくとして、法則は大変な努力でいじることはできますが、破ることはできないのです。
法則を守れば、いとも簡単に、そんなに大変な努力をしなくても生きていけます。

法則を守ると、幸せが生れてきます。
法則を破ると、終わりです。
ですから、敵を慈しむというのも、生命の法則を守ることなのです。
生命の法則を守れば、幸せになります。
生命の法則を守ることは、生きる権利の獲得です。


ですから、自分で自分のことをしっかりやればいいのです。
それができないのは、心の弱みなのです。

心の弱みをなくす方法は、これから教える瞑想です。
(※ 午後の瞑想会のこと)
汚れたことを考えるから、心のエネルギーを浪費して、エンジンに馬力が出ない、
心のエネルギーが入ってこない状態になるのです。

心の汚れを落とす方法を、お釈迦様は教えました。
ですから、各自、がんばって、自分の心の汚れを落とすことを実践するのです。


また、人生の悩みの大半は、人間関係のトラブルから起こっています。

人の人権を守っているのか、独立した人格と認めているのか。
人を怒鳴ったりののしったりしていないか。
相手の人格や尊厳をつぶしていないか。

そうしたことがあると、人がそれで言うことを聞かなくなります。
自分が偉いと思ってしまって、人に罰を与えようとしても、必ず失敗します。

一人一人の生命には人権があって、自分の力で生きていると理解した上で、話すと、うまくいきます。

お釈迦様の智慧というのは、生命は平等であることを発見したということです。

お釈迦様には、いろんな数多くの前世があったとジャータカには描かれていますが、そうした菩薩の時代の中で、お釈迦様は決して嘘は言わなかったといいます。
嘘は言わない。
人に真実をかくすから、相手の人権を侵害することになるからです。

私たちも、慈悲に基づいて、生命の人権を大事にする、侵害しない。
嘘は言わない。
道徳を守る。
そうすれば、生命の法則を守っているのですから、必ずうまくいきます。


自分、仲間、全ての生命のためになるか。
これが道徳です。

自分のためになるか。
仲間のためになるか。
全ての生命のためになるか。

この三項目を全て満たすのが、道徳を守るということです。

道徳とは何か、この他に、いろいろ複雑な膨大な話をする必要はありません。

この判断基準三つを心に入れて生きてみてください。

人の尊厳を守る、自分の尊厳を守る。
生命が自由であって、かつ、自分は自分によって命令する。
管理しても、管理されても、結局はどの生命も自由なのです。

自分のことは自分でしなくてはならない。
一人一人が独立しています。

道徳とは、自分・周り・全ての生命の幸福を守ることです。
この道徳の三項目に照らして、その時その時に、行為を選んで生きるのです。


行為を選ぶ時に、もうひとつ大事なことがあります。
それは、感情でやらないこと、理性で行うことです。

感情が湧いてきたら、いったん停止することです。

ちょっと待ってみる。
貪瞋痴の感情が湧いてきたら、いったん止めてみる。
意志で止めてみるのです。

そうすると、能力があがっていきます。

生命の権利を守り、三つの道徳項目を守り、ちょっと停止してみる。
そうすると、100%の確率で成功します。

道徳の三原則を、日常生活にあてはめてみてください。


さらに、もうひとつ生きていく上での心がけを言うならば、借金はなるべくしないようにしてください。
投資はいいのですが、個人個人はなるべく借金をしてはなりません。
自分の生き方に必要なお金は、自分で持たなくてはなりません。

また、もうひとつ知っておくべきことがあります。
生きることはそんなにラクではないということです。

生きることはラクではありません。
すぐに不機嫌になってしまう。
何をしても、疲れるのです。
痛みで生きている。
すぐに不機嫌になるのです。

このポイントに気づいて、気をつけてください。
一分生きていると、56秒ぐらいは不機嫌になりやすいことが生じてくるのです。
ですから、これをやめて、にこにこと笑っていてください。
そうすれば、成功します。

笑顔で、微笑んで生きるのです。
これは、ムリにやらないと、できないのです。
修行と思って、微笑むことを心がけてください。


もう一つ、ポイントがあります。

仕事で、大きく落ち込んで、自殺したり、ダメになったりする場合があります。
これは、理性がなくなっているのです。

多くの人には、悪い習慣があります。
悪い習慣というのは、物事を大きく見すぎることです。

でっかすぎる目的を持つと、体が動かなくなってしまうのです。
でっかい目的に足を引っ張られないようにすることが大事です。

小さく分析するのです。
小さなコマに、小さく小さく切る。
ステップ・バイ・ステップ。
小さな項目で動くのです。
そうすれば、なんてこともなく、できます。
今目の前にある、小さなコマを、今ここでやる。

それには、小さく分ける分析能力が必要です。
小さなコマをしっかり学ぶことが、分析能力です。
この分析能力は、初期仏教の特徴で、初期仏教に特徴的な能力です。

毎日、何でも分解する。
小さく分けて分析する。
小さな項目で動く。

これを心がけてください。


さらに、愛語ということを心がけて生きてみてください。

愛語とは、聴いた人の気持を傷つけない言葉のことです。

また、愛語を心がけるにあたっては、しっかりと発音し、ゆっくり話して、生きてみてください。

しかし、時折、とてもゆっくり話している人を見ると、いらいらすることがありますね。
あれは、本当にきちんとゆっくり愛語で話しているわけではなく、その人が無駄話をしているからいらいらさせられるのです。
ゆっくり話しても、無駄話ではダメです。

何を言いたいか、また、そのための話の量を知り、はかってしゃべってください。
目的やそのために必要な量をはかってしゃべるのです。

一時間の話を、きちんと整理して、二分ぐらいに整理すれば、どれだけゆっくりと話してもいいでしょうし、ゆっくり話せます。

あと、いくらか貯金があった方がいいですね。
在家の方は。
というのは、明日どうなるかわからないからです。

むやみにケチになって貯金しようとするのもいけませんが、明日どうなるかわからないということから、合理的に考えて、貯金をしていってください。

人によっては、不安から際限なく貯金しようとしてしまう場合もありますね。
ただ、いくら貯金しても、不安は決してなくなりません。

不安ほどありがたいものはありません。

安心は、ありえません。
世界は不安なのです。
だから、心も当然不安です。
これはどうってことない事実です。

不安があるから、人はがんばるのです。
不安は、生きる衝動になっているのです。

ですので、貯金は理性に基づいて行い、布施を心がけて生きてみてください。

貯金するほど収入がないと悩む人は、まず先に自分からあげる人になることも良いかもしれません。
布施を行い、先に何かこの世界にあげる人は、法則によって自分も与えられるのです。

また、むやみに人を信頼することはやめる。
人を信頼することはほどほどにする。
自分のことですらよくわからず、信頼できないのが人間なのですから。
ましてや、他人をそんなにむやみに信頼できるはずがありません。

ポイントは、自分が信頼できる人間になる、信頼できる人間に自分を育てる、ということです。
これしかありません。

振り込め詐欺なども、振り込まないでください。
何のために、と尋ねて、尋ねて、しっかり調べてください。


(以上)


【スマナサーラ長老とのQ&A】


Q,(あつしの質問)

不安や焦りがあんまりひどくなると、冷静に立ち止まったり、小さなコマに分析したりできないで、頭が不安や焦りでいっぱいになってしまうことがあります。
こういう時は、どうすればいいのでしょうか?


A,(スマナサーラ長老の御答え)

不安には、そのつど適切に対処しないといけません。
そうしないと、どんどん次々と新しい不安がたまっていって、大きくなり、パニックになってしまう場合があります。

また、不安は海の水のようなもので、なくなりません。

ですので、そのつどそのつど、適切に、今ここに、目の前にあることに対処するしかありません。

今、ここに、人生というものは、誰でも制約されています。
ですから、本当はあまり選択の余地はないのです。

自分は人生どう生きようかとか、将来どうしようとか、あれこれ考える必要はありません。
今ここの、目の前にある階段を一歩登るだけに集中すればいいのです。

そうすれば、人生の階段を、一歩一歩登っていけます。

アレクサンダー大王も、ゲームをしながら隣の国が欲しいなぁとただ思っていただけであんなに大帝国ができたわけではなくて、そのつどそのつど、今目の前にあることに尽力していって、結果としてああなったのです。

「今、ここ」の二つのことばを心に入れて生きてください。

Q,(若い男性からの質問)

愛語ということをおっしゃられておりましたが、優しく言おうと心がけていても、相手が受けいれてくれなかったり、衝突したりすることがあります。
どうすればいいのでしょうか?


A,(長老の御答え)

相手の心に自分の言葉が届くまでは、自分の責任です。
わかりやすく、相手の心に届くように、工夫して言葉を話すことが大事です。

相手の人権を認め、愛語でわかりやすく話すことをしないで、相手が怒りだしたなら、相手が聞いてくれないことも、相手の怒りも含めて、自分の責任です。

しかし、相手の人権を認め、愛語でわかりやすく話しているのに、相手が怒り出したならば、それは自分の責任ではなく、相手の責任です。


Q,(男性の質問)

貪瞋痴の、貪と瞋はまだわかる気がするのですが、痴というのがよくわかりません。
痴とは、どう考えればいいのでしょうか?

A,(長老の御答え)

普通の人間の場合、痴は24時間あるので、たしかにわかりづらいんですね。
貪と瞋が起こっている時以外の妄想は、痴と考えて良いです。
痴は非生産的なものです。
貪や瞋は、何か生産する場合もあるんですね、動機は悪いですけれど。
その点、痴はまったく非生産的だし、かつ痴になればなるほど自覚しにくいという特色があります。
仏教を学び、瞑想を実践して、痴がうすまってくると、少しずつ痴が自覚できるようになってくる場合もあります。
ただ、はじめのうちはよくわからないので、仏教を学び、瞑想を実践してください。


【瞑想会】

瞑想指導の時間では、スマナサーラ長老はとてもわかりやすく丁寧に、時に厳しく、「実況中継」「ストップモーション」「スローモーション」「坐る瞑想」「立つ瞑想」「歩き瞑想」や、背筋の伸ばし方などを教えてくださいました。

特に、以下のことを最後に強調されていました。

瞑想の御利益は、瞑想をしないとあらわれません。
瞑想をせずに、瞑想の御利益だけ望んでもありえません。
自分自身が瞑想にがんばるしかありえません。
商品を買うと今はポイントがついてくることが多いですが、瞑想もポイント制と思ってください。
瞑想をするごとに、ポイントがたまる。
瞑想をしないと、ポイントはたまらない、と。
ポイント制と思って、一人一人瞑想してください。


(以上)

(文責・あつし)
posted by 管理人 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | スマナサーラ長老講演会