2010年08月03日

7月25日 勉強会

7月25日は、少童神社で勉強会が行われました。
今回はじめて来て下さった方5名を含め、参加者は15人。
御講師はデニヤーイェ長老でした。

ダンマパダ講義や慈悲の瞑想は冷房の入る部屋で行いましたが、呼吸の瞑想は冷房のない大きな部屋で行いました。
しかし、窓を開け放ったところ、意外に少童神社の大きなクスノキの木陰を通って吹いてくる風は涼しく、快適に瞑想を行うことができました。

食事の時間はみんなでいろんな食べ物やお菓子を持ち寄り、和気あいあいと楽しいひとときを過ごしました。


【勉強会の内容】

1, 慈悲の瞑想について

参照
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

人間は、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根から情報をとりいれ、 それらに対して好き・嫌いの感情、つまり煩悩を起こして生きています。

仏教では、こうした煩悩、つまり欲望(好き)や怒り(嫌い)といった思 考・感情から離れることが幸福だと説きます。
欲望や怒りの思考から離れた分、静かな落ち着いた心、つまり 幸福が実現すると説きます。

しかし、悪い考えを止め、良い考えを心に起こすことは、その ままではけっこう難しいものです。

そこで、良い言葉を唱え、悪い思考を止めて良い思考をそこに 起きるようにすることを教えます。
良い言葉を唱えると、わりと難しくなく悪い思考を止め良い思 考を育む実践ができます。

慈悲の瞑想は、まさにそうした実践です。



(慈悲の瞑想に関するQ&A)
(Qは参加 者。Aはデニヤーイェ長老)

Q, 慈悲の瞑想は言葉に出した方が良いのでしょうか?

A, 最初のうちは,慣れるまで声に出した方が良いです。慣れてきたら、必ずしも声に出さなくてもいいです。


Q,慈悲の 瞑想を唱える時の、音やメロディはどうしたらいいでしょうか?

A,静かな 心が伴うものが良いです。なんでも良いというわけではありませんが、心が静まるものであればある程度自由で良いと思います。


Q, ウペッカー(捨)の瞑想が具体的にイメージをつかみにくいのですが、どう考えたらいいのでしょうか?

A,ウペッ カーをイメージするとすれば、空です。何もない、空そのもののが、あえていえばウペッカーのイメージです。否定的でもなく、楽天的で もなく、どちらでもない智慧の状態がウペッカーです。ですので、一番悟りに近い感情と言われます。


Q, 慈悲の瞑想で先祖や他人に良い影響を与えることはできるのでしょうか?

A, 仏陀は,慈悲の心で強い影響をいろんな生命に与えることができました。自分の心の力が強まれば、場合によっては強い影響を与えること もできるでしょう。ただ、仮に他人に影響を与えなくても、慈悲の瞑想によって確実に自分の心は清まり良い影響を受けます。そのことに よって、結果として、良い影響を周囲に与えていくこ とはありえます。

Q, お経はマントラでしょうか?

A, マントラは人のつくったもの。お経は悟った人・仏陀のお言葉です。


Q, 嫌いな人々が特にいない場合も,慈悲の瞑想は嫌いな人々に対しても行った方が良いでしょうか?

A, もともとのお経は、「人」に限らないで、もっと広いいろんな存在を含めて慈悲の心を育むことが説かれています。たとえば、蛇がきらい だったら蛇や、嫌いなもの一切を,あるいはいてもいなくても関係ないと思っている,影響を受けていないと思っている一切のものに対し て、それでは慈悲 の心を育んでみると良いのではないでしょうか。




2,Saṅgha vandanā(僧伽の九徳)の解説

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/sanga-9toku.html

Saṅgha vandanāは,仏弟子たちの特徴について述べられた偈です。
もともとは、神様が仏法僧に唱えたもので、それを聴いて良いと思ったので人々が仏法僧を讃える時に使うようになったと伝えられています。

Saṅghaは、弟子たち、グループの意。
vandanāは礼拝。

Supaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho

Suは良い,正しい。
paṭipannoは,乗った人、入った人。実践する人の意味。
Paṭipadāは道に入っている「事」の名詞で、paṭipannoは道に入っている、その道にもう乗っている「人」を指す名詞です。
つまり、Supaṭipannoは正しい道を実践する人。

bhagavatoは、世尊の。
sāvakaは声聞。聞いて学ぶ人。古代は基本的に口伝で口伝えでいろんな知識の伝達がなされたので、先生そのものが教科書でした。
saṅghoは、Saṅghaのことで、グループ,教団の意味。

Ujuは真っすぐ。
つまり、Ujupaṭipannoは、真っすぐに、悟りを開く目標で道に入っている人、の意味。
在家の場合は、悟りよりも天界に生まれたいとか世俗的な幸福を功徳を積むことによって求めたい気持ちがある場合もありますが、お釈迦様のおられた頃の出家者は,悟りをまっすぐに目指す人々であったということです。

Ñāyaは,修行。
Ñāyapaṭipannoは、修行をやりながら道に入っている人ということ。

Sāmīciは、経験を受け取りながら,という意味。
つまり、Sāmīcipaṭipannoは,慈悲の瞑想などにより、良い影響を受けながら、良い影響を経験しながら、道に入っている人という意味。

Yadidaṃは,たとえば。
cattāriは,四つ。
purisaは、人。
yugāniは、組。二人の組。

aṭṭhapurisaは八人。
puggalāは人。
Esaは,この。
ということを,それぞれ意味します。

預流果(よるか)・預流向(よるこう),一来果(いちらいか)・一来向(いちらいこう),不還果(ふげんか)・不還向(ふげんこう),阿羅漢果(あらかんか)・阿羅漢向(あらかんこう)の、悟りの四つの段階とそれに向かっている人の、四双八輩のことです。

Āhuneyyoは,遠くから行って、持ってくるものを受けるべきもの、存在。
Pāhuneyyoは,客として受け取って,尊敬されるに値すること.
Āhuneyyoはこちらから行って御布施をするのに値し、Pāhuneyyoは来てもらった時に御布施するのに値する、という意味です.

Dakkhiṇeyyoは,与えるべきである存在。

Añjali karaṇīyoは,礼拝するべき存在。

Anuttaraṃは無上。
puññakkhettaṃは、福徳の田んぼ。福田。
lokassā tiは人々の。
つまり、Saṅghaは人々にとって功徳を得るための田んぼのようなものであるということです。

人が仏法僧に近づくためには功徳が必要です。
この仏法僧のうち、人が簡単に近づくことができるのは僧=サンガ(Saṅgha)です。
仏と法は功徳が無いと,近づくのはなかなか難しいといわれます。

Saṅghaがあるということは、功徳を得る田んぼがあるということです。
少ない米で、多くの収穫があるようだというたとえがなされます。
困っている時に、人々が容易に近づくことができるのもSaṅghaです。
Saṅghaを通して,人は仏と法を教えてもらい、仏と法に近づくことができます。





3、「ダンマパダ」 第21〜24偈 解説


「ダンマパダ」 第2章 「不放逸の章」

 第21偈
 不放逸は不死の境地であり、放逸は死の境地である。
 不放逸の人々は死なない、放逸の人々は死せる如くである。

 第22偈
 不放逸におけるこの特質を自覚して、賢者達は
 不放逸を喜び、聖なる行境を楽しんでいる。

 第23偈
 彼らは常に堅忍不抜で奮励努力の禅定者たちである。
 賢者たちは、無上の涅槃、束縛からの安穏を体験する。

 第24偈
 奮起し、念を保ち、行い清く、注意深く行動し、
  自制あり、正しく生活し、不放逸である人の福徳は増大する。

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhp-reading-1.html


不放逸(appamado, appamatta)という言葉の中には、努力・勤勉・精励・入念という意味もあります。

一方、放逸(pamado, pamatta)とは、だるさ、怠惰ということも含めて意味しています。

誰かの生活の中に、放逸があれば、悪い方向に導かれてしまいます。
一方、不放逸があれば、悪い方向にはならないのです。

放逸は、1、人生が悪くなる
    2、死後も悪くなる

不放逸は、1、人生・生活も良くなる
     2、死後も善い所に赴くし、善い名前もこの世にのこっていく

放逸であると失敗します。
不放逸・入念であると成功します。

人間は、往々にして、放逸を楽しんでしまいますが、その場合は失敗してしまいます。
入念・不放逸を楽しめるか、喜びをもってそうした状態になれるかどうかというのは、長い目で人生を見れるかどうかによります。
長い目で人生を見ることができる人は、入念・不放逸を喜び楽しみます。

心には、放逸・怠惰・だるさという特徴がもともとあります。

ですので、放逸という壁を破れば、破る力があれば、人生は良い方向に向かいます。
「放逸の壁を破る」ことがとても大事です。
放逸は人間の心の中の弱点、心の中の弱いところなので、不放逸によって放逸の壁を破ることの大切さを仏教は意識的に説きます。

ことわざに、「農家が農業を好きになれば神にもなれる」というものがあります。
自分の仕事に精励し、怠け心に打ち克てば、どのような仕事でも、どのような生活でも、心はかなりのレベルに達するということです。

ちなみに、第24偈は、私(デニヤーイェ長老)の最も好きな偈です。


Q,同じ「賢者」と翻訳されている言葉が、22偈では”pandita”、23偈では”dhira”となっておりますが、この二つのパーリ語の違いは何でしょうか?

A,panditaは、知識ある人、学者という意味です。dhiraは、知識と不放逸を併せ持つ人です。ですので、panditaの中には、知識だけあって智慧や不放逸のない学者が中にはいるかもしれませんが、dhiraは知識も智慧・不放逸もある人ということですね。


Q,努力や精励の大切さという御話を聞くときにしばしば疑問になることがあります。
日本においては、しばしば過労死という現象があり、働きすぎのために自分自身が体を壊して早死にしたり、あるいは自殺してしまう場合が時折あります。
そこまでいかなくても、仕事のために家族を顧みず家庭が崩壊したり、そこまでいかなくてもあくせく働いて人生を楽しむ暇もないような話は、戦後の日本にはよくある事例のように言われ、欧米のように人生を楽しむ余裕が大事ではないかということがしばしば言われます。
 放逸・不放逸の御話と、このような事例とを、どのように考えればいいのでしょうか?


A,不放逸とは、自分の目標に関係して言われることです。
さらに、自分の心の中の状態についてのことです。

働かされているという意識ではなくて、自ら働くという意識に関わることが、不放逸ということです。

自分の心の中の怠惰な気持ちは、悪い影響を与えます。
この悪い影響を防ぎ、打ち克つことが、不放逸ということです。
働くことと余裕との関係とは、また別の視点から言われていることですね。

心の観点と、目標・目的。
これが不放逸・放逸に関して論じる時に、最も大事なことです。

同じく働いているように見えても、一方ははっきりとした目的があり、自ら進んで精励していれば、いくら働いてもあんまり疲れを感じないということがありますね。
逆に、嫌々ながら、目的もよくわからなくて無理して働けば、とても疲れを感じるということがあります。
また、とても働いているように見えても、肝心のことに気づかず、不注意によって自他に被害をもたらすような出来事を起こしてしまえば、それは放逸です。

この観点から考えてみることも参考になるのではないでしょうか。

(以上)

(文責・あつし)
posted by 管理人 at 11:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 勉強会