2010年09月16日

9月12日 勉強会

9月12日の勉強会は、少童神社で行われました。

前日まで東京で用事のあったデニヤーイェ長老は、今朝の飛行機で福岡に戻り、その足で勉強会まで来てくださりました。
初参加の方の個別の相談に別室で応じられたり、勉強会でもいつものことながら本当に素晴らしい講義と質問へのお答えをしてくださいました。

午前中は慈悲の瞑想やテーラワーダ仏教における「サッダー」(信)についての御法話。
午後からは、ダンマパダ第25偈についての講義。
および、勉強会終了のあと、夕方から長老に御時間をとっていただき、質疑応答を行いました。
その質疑応答については、別途将来小冊子にまとめる予定です。

秋になり、少し涼しくなってきたとはいえ、まだ暑い中での勉強会でしたが、大変充実した勉強会でした。


[勉強会の内容]
(文中、Qは参加者の質問、Aはデニヤーイェ長老のお答えです。)


【テーラワーダ仏教における“サッダー”(信)について】

前回、朝夕に瞑想を実践しようと思いながら、ついつい日常の出来事にまぎれて続けて実践することができず、途絶えがちになってしまうけれどどうす ればいいでしょうかという質問がありました。

仏教の勉強や瞑想を続けるうえで大きな支えになるものとして、また本格的な瞑想をなかなかすることができない時にも育て続けることができるものと して、

お釈迦様は「サッダー」(saddhā、信)ということを説かれています

仏教における信(サッダー)は、単に信ずることではなく、実際にその教えを自分で実践し、その良い結果を受け取りながら高めていくという性格のも のです。

サッダーを高める努力をすれば、日々の実践で煩悩から離れることができます。
しかし、サッダーがなくなること、サッダーからこぼれ落ちることは、いけないことだとテーラワーダ仏教では説かれます。

サッダーを高めるためには、いくつかの方法があります。

たとえば、一、二か月に一度、皆さんのように集まって、瞑想の実践や仏教の話を聞くことも大きな意味があります。
初期仏教において、および今でもテーラワーダ仏教の国々では、満月の日に、そのような集まりを持っています。
このことも、自分のサッダーの力を高めることになります。

サッダーの力を高めるとは、仏法僧に対する自信を高めることです。

自分ひとりでサッダーを高める方法には、三つあります。

ひとつめは、パリッタ、つまりお経を聴くことです。

これは、瞑想の代わりにもなりますし、功徳を得ることになります。
CDやPCからお経を聴くことも、そのひとつです。

パリッタの中で、最もよく唱えられるのは、「慈経」(メッタ・スッタ)です。他にも、宝経や吉祥経などがあります。

意味が分からなくても、お経を聴くだけで功徳があると言われています。
仏典には、動物がお経を聴いて、良い力を得たという話が出てきます。

意味がわかれば、そのお経によって良い思いが生じますから、なおのこと良い功徳があります。
意味がわかるまでは、意味がわからなくてもお経を聴くことはとても良いことだし、学習する機会があって意味がわかるようになればなお一層良いとい うことです。

勉強するチャンスがあり、お経の意味もわかって読むことは、とてもサッダーを高めることになります。
これが自分ひとりでサッダーを高める方法の二つ目のことです。

三つ目の、自分ひとりの時にサッダーを高める方法は、礼拝、つまり仏法僧に礼拝することです。
仏法僧に礼拝すると、サッダーの力が高まり、心が浄まります。


サッダーは、仏教の教えを実践する第一のステップです。
瞑想ができなくても、サッダーの力を高めることができます。

礼拝すると、自分で仏法僧から功徳を得ることができます。
瞑想ができない時は、礼拝でサッダーの力を高めることができます。

仏典の中に、サッダーの力が強くなることは、心の中に柱があるようなものだというたとえがあります。
ダンマ(法)を聴くことができない地域に行っても、サッダーがあれば大丈夫だと言われます。

今世に悟りを開くことを目的として一心不乱に努力する人は、とてもサッダーの強い人です。
しかし、普通はそうではないので、さきほど述べたような集会を時折行ったり、お経を聴いたり、学んだり、礼拝をすることによって、だんだんとサッ ダーを高めていくことが大事です。

そうして、良い結果を受け取りながら、サッダーを高めてから死ぬと、その力のおかげで、悪いところには生まれ変わらず、良いところに生まれ変わる し、今生きている間から良い人生になっていくと仏典には言われています。


Q1、大乗仏教の中の、たとえば浄土真宗においては、信心はあるかないかが大事とされて、あまり信心が高まったり深まったりすることは言われない 場合があります。テーラワーダ仏教では、サッダーはより高まるし、高めていくものであって、あんまりあるかないかということは重視されないという ことなのでしょうか?

A1、お釈迦様のお言葉に「来たれ、見よ」(エーヒ・パッシコー)というお言葉があります。
たしかに、最初に来るときは、ちょっと信じていないと来ることができませんから、最初にちょっと信じていることは大事ですね。
外側から仏教を見て、ちょっと信じて、まずは来るということです。
でも、そのあとに、見て、実践して、実際に自分自身が経験を受けとめ、その中でサッダーを高めていくことが大事です。
ただ信じるだけではなく、実際に良い結果を自分が受けとめていくことでサッダーを高めることがテーラワーダ仏教では説かれます。
最初にちょっと信じることは確かに仏教に来てみるために大事なことですが、いったん来たあとは、信心があるかないかより、行う中でサッダーを強め 高めていくことが大事だと、テーラワーダ仏教においては教えられています。


Q2、お経を聴くだけで功徳があるというのは、なかなかよくわからないのですが、たとえば日本ではお葬式の時に漢文の大乗仏教のお経を棒読みし て、大半の人は意味もよくわからずにいます、あれにあまり意味があるとも思えないのですが、意味はあるのでしょうか?

A2、音楽も、人の心に影響があります。
音は、人の心を静めたり、影響を与えることがありますね。

その中でも、特にお経は人間の心に良い影響を与えるといいます。

その理由として、三つのことが挙げられます。

一つは、仏陀の言葉であるから。
仏陀は、母親が自分のたったひとりの子どもを慈しむような慈悲で、ひとりひとりの衆生を慈しんでいました。
母親のことばに、子どもは、母親の慈愛のゆえに影響を受けますね。
私たちひとりひとりをそのような慈悲で見ている仏陀の言葉であるゆえに、影響力があると言われます。

二つ目は、すべてのお経は慈悲を持っているから。
すべての生きとし生けるものが幸せになりますようにと、ただそのことを願って言われた言葉だから。

三つ目は、ひとつひとつの語句・文章が、真実の意味であるから。
どの文章や語句をひとつとっても、すべて真実のことばである。

こうした三つの要素がもともとあるから、意味がわからなくても、心が良い影響を受け取るとテーラワーダ仏教では言われています。


Q3, この三つの点は、大乗仏教の経典にもあてはまるのでしょうか?それともあてはまらないのでしょうか?

A3、大乗仏教の経典は、大きく二つに分けることができます。

@、初期仏教の教えに関係ある大乗経典
A、初期仏教の教えに関係ない大乗経典

の二つです。

このうち、@のものであれば、仏陀の言葉・慈悲・真実という三つの要素を持っていないとは言い切れません。
しかし、Aのものであれば、上記の三つの点のどれにもならない可能性があります。

自分自身がどのようなお経を読むか、唱えるかということを考え判断するときは、

・仏陀の言葉であるか
・慈悲の思いであるか
・真実であるか

という三つの観点から選択し、どれを読むか決めることです。




【ダンマパダ 第25偈 講義】

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp24-32_V2.pdf

第25偈

uṭṭhānen' appamādena saṃyamena damena ca
dīpaṃ kayirātha medhāvī yaṃ ogho nābhikīrati.

「そして、奮い立つことによって、不放逸によって、自制によって、調御によって、
智慧ある人は、(自らを)暴流が破壊できないところの洲と為すべきである。」



この第25偈は、もともとは、瞑想で努力していてなかなか悟りの目的に達することができなかった人の心の変化のために、自分の心に流されないよう にするために、お釈迦様がお説きになった偈です。

パーリ語で、”ena”の語尾の変化は、「〜によって」という意味になります。

“yaṃ”は関係代名詞で、どのような島かの説明の文となります。

パーリ語の韻文は、一行に八音、四行で三十二音の韻律があります。
この偈もそうなっていますが、これはお釈迦様が16歳までは当時の古典的な教育を受けていたために、おのずとそうなったのでしょう。
当時は、言語の力のある人のみこのように正しく文章を書くことができました。

「暴流」(“ogha“)とは、煩悩の流れ、人が足をすくわれやすい煩悩の流れのことです。
心の中から出てくる洪水のようなものです。

暴流には四つあります。

無明(avijjā)
欲(kāma)
生(bhava) 
見(diṭṭhi)

“bhava”(生)とは、煩悩から離れていない普通の人は、ずっと生き続けたい、生まれ変わってもより良い形でもっともっと生きたい、という思 いがあることを指します。

“diṭṭhi”(見)とは、さまざまな概念や強い思いのことです。

心の中の四つの思いの洪水、この四つの暴流に流されている人は、輪廻に流されてしまいます。


Q4、努力や不放逸ということも「もっと」良くなりたいと思うことだと思いますが、bhava(
生)の「もっと」という欲求とどう区別をつけたら良いのでしょうか?

A4、「もっと」という思いには、二つあります。

1、 煩悩で流されてそう思ってしまうこと。
2、 煩悩から離れて、流されないでそう思うこと

1は、真実が見えなくなってしまいます。

ですので、自分は向上・努力と思いながらも、1であるならば、真実が見えていないことになってしまいます。

煩悩に流されることから、自分を守るために、努力・不放逸・調御に励むことが、2の意味の「もっと」ということです。



Q5、25偈の文章の「自制」と「調御」の違いがよくわからないのですが、どのような違いがあるのでしょうか?

A5、日本語にすると違いがわかりにくくなってしまいますが、パーリ語の原文だとかなり意味に違いがあります。

Saṃyama (自制)とは、ある程度考えることによって、自分で思考することで、流れを変えたり整えることができること。
Dama (調御)とは、より力を入れて、コントローする必要があることです。

たとえば、24時間漫画を読みたいとは思うけれど、そう怠けていては仕事も勉強もはからどらないし、あとで大変なことになると考えてやめることが saṃyama(自制)。
一方、肥満になった時に、ただ考えるだけではだめで、食事や運動に力を入れてコントロールすること、あるいは食事もその代わりとなる何かダイエッ ト食などを工夫するなど、単に考えるだけではだめで、かなり力を入れて実行することがdama(調御)です。

あるいは、自分でお酒の弊害をよく考えて検討して、それでお酒をやめるのはsaṃyama(自制)であり、
それに対して、自分ではなかなかやめることができないので、冷蔵庫の中のビールをすべて家族に捨ててもらうとか、思い切った手段をとることが、 dama(調御)と言えるかもしれませんね。


Q6, 25偈の中の「奮起、努力」(uṭṭhāna)と「不放 逸」(appamāda)の違いは何なのでしょうか?

A6、これも、日本語だと区別がわかりにくいかもしれませんが、パーリ語のもともとの意味だと、このような違いがあります。

Uṭṭhāna (努力)とは、今よりも力を入れること、今までにないことを実現しようと努力すること。
Appmāda(不放逸)とは、今より落ちないこと、今までの状態から落ちないようにする努力、という意味です。

一日八時間働いているのを十時間にするのはuṭṭhānaであり、何があろうと八時 間を続けるのがappamādaということです。


Q7, 不放逸とは、四六時中サティ(気づき)を入れることだという説明を聞いたことがあるのですが、そういう意味もあるのでしょうか?

A7, 仏教としての意味では、サティをずっと入れていることを不放逸だととらえることは、正しい解釈です。

サティをずっと入れることによって、人は失敗をせず、落ちずに生きていくことができます。

ただ、ブッダという言葉が、もともとの言葉は「わかった人」という意味の普通の言葉だったのが、仏教においては特に「悟った人」という意味である ように、不放逸が四六時中サティを入れることだというのは、仏教的な意味においてであり、もともとの辞書の言葉には必ずしも書いていないことで しょうね。


Q8, 努力や精進を指す言葉で、ヴィリヤ(viriya)という言葉もよく仏教において使われますが、このウッターナ (uṭṭhāna)とはどういう意味の違いがあるのでしょうか?

A8, Viriyaは、邪魔なものが来ても負けない努力のことです。
Uṭṭhānaは、今までないものを始める努力、新しく努めることです。


Q9、 四暴流の中の”kāma”は、しばしば日本の大乗仏教では「愛欲」と訳されていますが、欲であって愛欲ではないので しょうか?

A10、愛欲は、kāmaの中の一つです。
Kāmaの意味はもっと大きくて、愛欲はその中で確かにもっとも強いものではありますが、愛欲よりも広い意味で使われます。
おそらく、特にkāmaの中で愛欲はもっとも強いものなので、昔の日本の人が愛欲と訳したのかもしれません。


Q11、bhavaは「有」と訳されることも多いと思うのですが。

A11、「有」という訳も正しいです。
Bhavaは、生まれること、有ることに対する執着、生存への執着、次にあることへの執着です。


Q12, 現代人の中で、死んだあとのことは信じていないけれども、自分の名前をのこしたいと思ったり、銅像や碑文を建てたがるひとがしばしばい ますが、このような欲求もbhavaの一種でしょうか?

A12、自分の名前をのこしたいと思うことも、たしかにbhavaの一種です。
しかし、良いことをして、良い名前をのこすことは、良い影響をほかの人々に与える場合もあるので、良いことである場合もあります。

ただし、たとえば、昔の仏像や仏教美術の作品には、まったく作者の名前がのこっていないことが多いです。
その人たちは、世界のためにつくっておく、人々のためにつくる、という思いしかなく、自分を入れる考えはありませんでした。

今の美術作品は、ちょっとしたものでもすべて自分の名前が入っていますね。
Bhavaが働くことが必ずしも悪いとは言えませんが、良いものを人々にのこす気持ちが大切かもしれません。


Q13, “kāma“(欲)と、渇愛を意味するTaṅhāはどう違うのでしょう か?

Kāmaは、今現在の働き、今現在心に欲が働くことです。
Taṅhāは、そのもととなるもので、心の奥に働くものです。

Taṅhāという鍋の中で、kāmaが動き出すという表現があります。



お経は、何回も読むこと、考え直すことで、より広い意味が見えてきます。
ダンマパダも、繰り返し読み、味わってください。

(以上)

(文責・あつし)
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2010年09月11日

8月29日 勉強会

8月29日の勉強会は、サンレイクかすやで行われました。
御講師はウ・コーサッラ長老で、アビダンマについて講義していただきました。
参加者は十五名ほど。
最近参加するようになられた方や、新しい参加者の方が全体の三分の一ほどおられました。
活発な質疑応答が行われ、とてもためになる勉強会でした。




『勉強会の内容』

(今回の勉強会は、講義の途中に活発な質問があり、それに沿って長老もお話してくださったので、メモも講義の途中に質疑応答を入れる形で再現しています。Qが参加者からの質問、Aがウ・コーサッラ長老のお答えです。)




【今までの復習と三つ心の流れ】


心はどういう法則で変わり、生滅し、流れていくか。

勝義諦には、
心、心所、色、涅槃、
の四つがある。

このうち、心と心所を名(ナーマ、精神)と分類し、色(ルーパ、物質)と区別する。

涅槃に入らぬ限り、心は無間に生滅し続ける。
c.f. テーラワーダ仏教では中有(死んでから次に生まれ変わるまでの一定の期間)は説かない。

心の寿命 心刹那=大刹那=3小刹那
1小刹那=生・住・滅
色法(物質)の寿命は、心刹那の17倍。

スマナサーラ長老がよく「心は光の17倍」というのは、アビダンマのこの箇所から語られている。
光は色法の中で一番早いので、心の速さが色法の17倍ならば、光の17倍だろうということです。

心には三つの流れがある。

・有分心の流れ (有分心とは、五門や意門の流れの間に走る潜在的な心の流れのこと)
・五門の流れ  (眼耳鼻舌身)
・意門の流れ  (意識)

人は、三つの流れのどれかで生きている。これらが交互に繰り返す。
生きているうちは、三つのどれかが流れている。

このうち有分心は生きている間は同じ種類の異熟心が生じ別の種類には変わらない。

Q1,有分心が変わらないとすると、瞑想で育つのは意門の流れでしょうか?

A1,そうです。瞑想をすると、意門や五門の流れの速行心において大善心が生じるのが多くなります。速行心でどういう心が生じやすいか、それが修行によって変わり、心がどれだけ成長しているかということです。単に刺激に流されるだけでなく、善心が生じやすくなる。意門や五門の速行心の流れを良くする、質を高めるのが瞑想・修行ということです。

速行心で業をつくっています。

Q2,心は物質でしょうか?

A2,心は物質ではありません。非物質、あえていえば非物質のエネルギーです。

しかし、肉体に依存して生じています。テーラワーダは心と物質の二元論です。唯物論でもないし、唯心論でもないということです。



【意門路、如理作意について】


意門路には、明瞭か不明瞭か、二つの違いがある。

Q3, 意門路の明瞭・不明瞭の違いは何よって生じるのでしょうか?

A3, 主として心の状態が清浄であるかどうかによって違いますが、速行心に善心が生じるかどうかは意門引転心(確定心)が強いかどうか、つまり如理作意があるかどうかによります。
如理作意への努力の違い、それによる習慣の違いが確定心の強さ・作意作用の違いを生じさせます。

如理作意(ヨーニソー・マナンシカーラー)とは、瞬時に道理にかなった・仏法にかなった判断ができることで、その反対が非理作意(アヨーニソー・マナンシカーラ)で道理にかなわない仏法にかなわない判断です。

いわば、

如理作意 良い受けとめ方  その反応に続く心に良い心が生じる
非理作意 悪い受けとめ方  その反応に続く心に悪い心が生じる

ということです。

たとえば、如理作意が生じれば、失礼なことを言われても怒りが生じない。非理作意が生じると、失礼なことにはすぐ怒るということになります。

受け入れ方の違いのことです。

人から何か指摘されて、相手が正しいとわかっているけれどやっぱり腹が立つ、などということがしばしば日常生活にはありますが、その時は本当にはわかっていない心も瞬間に交じって生じているから腹が立つ、つまり非理作意が生じている、と考えられます。


Q4,如理作意を育てるためには、どうすればいいのでしょうか?

A4,瞑想や仏教を学ぶことですね。
もともと性格が良くて如理作意が生じやすい人が時折いますが、そういう人は過去世においてそうした努力や修行をしていたと考えられます。



【禅定について】


禅定の心

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → 種姓 → 禅定 → 有分心

このうち、遍作から種姓までを近行定、禅定を安止定と言う。

意門引転心にいかに良い心を生じさせるか?ということが大事だが、サマタ瞑想では禅定に達することができれば色界・無色界善心が速行作用として何度も生じることになる。

瞑想にはさまざまな種類があり、第五禅定まで達するものもあれば、第五禅定までは達さない瞑想法もあるが、目的に応じた瞑想を行うことが大事である。

初めて生じる意門路においては禅定心は一刹那一回しか生じない。


智慧が鋭い人は、遍作心なしに近行から始まることができる。
二回目からでも、有分心→意門→近行定→安止定の四つの段階を経る。

悟る瞬間の心は、

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → (種姓) → 道 → 果 → 果 → 有分心

となる。

この種姓の時に、凡から聖に心が切り替わる。
この時の種姓の心は、涅槃を対象にできる例外的な欲界心である。

道は一回、果は二度目からの果路から何度でも生じる。

悟りには四種類。
預流、一来、不還、阿羅漢。

預流道に達すると、邪見と疑を除く。
悪い世界に生まれる悪い業がもう機能しなくなる。

一来道に達すると、怒りや欲が弱くなる。

不還道に達すると、怒りを完全に取り除き通常の欲もすべてなくなる。(梵天界に転生する欲が残っている)

阿羅漢道は、一切の煩悩を取り除き完全な悟りに達する。




【質疑応答】


Q5, 何のために人は生まれるのでしょうか?

A5, テーラワーダ仏教においては、何のために生まれるかというより、無明と渇愛があると、自動的に生まれ変わると考えます。

つまり、生まれ変わること自体が苦であるという真理を見ることのできない根本である二つの煩悩、無明(無知)と渇愛(欲)があると、輪廻の仕組みの中で自動的に生まれ変わってきてしまうので、そこに目的や意味はないと考えます。

ただ、仕組み自体に意味はないとしても、生まれてきたからには、意味がある生き方をしていかなくてはいけない、
生きているという事実がある以上、意味のある生き方をすべき、つまり心を育て、悟りに達するという生き方をすべきではないかと私は考えます。

今生の目的とか意味は、いくら考えてもわからない。
もちろん、いろんな意味付けはできますが、それは意味付けであって、何かはじめからある意味や目的というのは、いくら考えてもわからないものです。
わからないことは考えなくてもいい。
ただ、生きてきた以上はなるべく意味のある生き方をしようと努力することが大切。
そう思いますが、いかがでしょうか?


Q6, 社会問題やニュースへの反応の仕方として、仏教では怒りが不善心だとすると、どのような問題やニュースにも怒らずに、慈しみの心でみんなと話し合って解決を目指すというのが、仏教的には正しいということになるのでしょうか?

A6, そうですね。
反応として、なんであれ、怒りは不善で、慈しみ・慈悲喜捨は善心です。

ニュースなどを見ていると、どうしても悲しいものや腹の立つことがあったり、それでもどうもしてあげられないことなどが多々あります。
その時は、少し離れたところから、いろんな原因や条件によって一時的にそういう状況にその人はあるということを冷静に受けとめ、業や

いろいろな条件で一時的にそうなっているのだと冷静に受けとめ、いたずらに怒ったり心の悪い波に巻き込まれないようにすることが、仏教的には大事なことです。

そのうえで、慈悲の心から、自分にできることを考えて、していくことでしょうね。


Q7, 他の仏教の宗派の人で、どう考えてもおかしいと思っていることを言っている人と議論をしていると、話が平行線になって、自分の心にも怒りが生じてしまうことがあるのですが…。

A7, 聞く耳を持った人には話すけれども、一度違うと言って向こうが聞く耳を持たないならほっておく。
それしかないと思います。

聞く耳を持った人には話すし、将来何かの縁になりますようにと思って話すことも大事かもしれませんが、基本的には興味を持った人にしか言わない方がいいかもしれません。

解釈は個々人の違いで自由なことですし、大乗仏教の中でさえ宗派によっていろんな違いがあり、その同じ宗派の中でもまたさまざまな違いがあるほどです。
土俵が違う場合は、プロレスと相撲のようにルールが違うので、話がかみあいません。

ただ、違う時は違うと言え、ということはお経にも書いてあります。

ですので、一応違うと一度言って、相手が聞く耳を持つかどうかによってそのうえさらにどうするか決めたらいいのではないでしょうか。



Q8, 私の家族で、大乗仏教の経典を毎日熱心に読経している者がいるのですが、そのような場合も何か意味はあるのでしょうか?

A8, 大乗の経典であろうと何によってであろうとも、その時にその人の心に善心が生じていれば、それが功徳になり、その功徳を回向すれば、先祖や亡くなった人にとって意味のある効果のある回向になっている可能性はあります。

善心が生じる=功徳。
その功徳を回向すると、さらにその功徳にプラスアルファの善心・功徳になります。



Q9、功徳を積むというのは、たとえばどういう行為でなされるのでしょうか?

A9, 瞑想や布施、アビダンマの学習なども功徳になります。




Q10、随喜は、繰り返しした方が良いのでしょうか?
また、たとえばお布施した人の名簿を見て、偉いなあと随喜すると、それも善心が生じたことになるのでしょうか?

A10, そうですね。
繰り返し随喜した方がより善心が生じます。
自分がかつて過去になした善行為についても、他人がなした善行為についても、随喜するたびに善心が生じ、善心が強まります。

また、他人の善行為に随喜すると、嫉妬する心を取り除きます。
その意味でも、善心となります。

お布施した人の名簿を見て随喜することも、善心が生じることになります。
本来は、お布施した人の名前を書いて掲げたりするのは、他の人も随喜しやすくしたり、本人があとであらためて随喜しやすくするためのものです。

日本では、よく陰徳を積むということが言われて、ことさら名前を隠すことを勧めたりしますが、あまり陰徳でないとだめだとこだわる必要もなく、どちらでもよいことで、大事なことは名誉欲からの布施ではなく随喜することを自他ともにしていくことが仏教においては大事です。
陰徳というのはもともとのテーラワーダ仏教にはないことで、おそらく中国などの伝統的な文化や儒教の影響ではないかと思われます。



Q11、ある人が戒にこだわるのは程度の低い仏教で、五戒などもしょせんは完璧に保つことができない以上、そのような戒は偽善に過ぎない、有身見を断てば戒にこだわる必要はなくなるので、まずは坐禅で有身見を断つようにすべきだ、ということを言っていたのですが…。

A11, テーラワーダ仏教においては、有身見つまり邪見は預流道で断たれるとしますが、預流道に達すれば自然と戒を守ることができるようになると考えるのであり、預流道に達したから戒を破ってよいなどということはありえませんし、そのような考え自体が邪見なのでそのような発言をする人は預流道ではないということになります。

戒は、身体と言葉をコントロールすることです。
心をコントロールするのは瞑想です。

たとえば、心の中でいろんな浮気のようなことを考えていても、実際に行動に移さなければ、五戒としては問題ないということになります。
ただし、心には不善心が生じていることになります。(不善心が生じるのを薦めているわけではありません)

ただ、心の問題は、心がけ次第ではなく、瞑想(慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想など)を行わないと、きちんとコントロールできないとテーラワーダでは考えます。

ですので、戒と瞑想と両方実践することは大事です。

悪い心が生じる根は、普通のレベルの瞑想ではどうすることもできません。
悟らない限りは、悪い心が生じる根を断つことはできません。
しかし、瞑想をして善い心が生じてくると、心の流れが変わってきます。

ですので、悟る前も戒と瞑想に努力することが大事ですし、預流道に達したら自然と戒を守ることができるようになり、悟りの四段階(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に応じて心の悪い根がより完全に断たれていきます。

悟ったら何もかも自由で、戒を破ってどんなことをしても良いなどというのは、テーラワーダ仏教ではありえないことと考えます。

(以上)

(文責・あつし)



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