2010年04月12日

デニヤーイェ長老とのQ&A

先日、デニヤーイェ長老にいろんな質問をさせていただきました。
その時のメモをあとで思い出して作成してみました。
1、「無明についての質問」

(「Q」はあつしの質問。「A」は、その質問に対するデニヤーイェ長老の御答え)

Q,無明は減るのでしょうか?それとも減らず変わらないものでしょうか?

A,どうしてそういう問いをしようという考えを持たれたのですか?

Q,私の家は浄土真宗(西本願寺)の門徒なのですが、浄土真宗では人間は無明につつまれているため、善をしても毒のまじった善しかできず、本当の善をすることができない、だから、自分のはからいを捨ててすべて阿弥陀如来にお任せして救われなさい、という話をする場合があります。人間は無明に限定されていて、本当の善をすることはできないということを言うお坊さんがいます。この点についてはどう思った方が良いのでしょうか。

A,たしかに、人間は十二因縁の無明のために輪廻しています。
無明ですので、ものが本当は無常で変化しているということを知らずに生きています。
夢の中で生きているようなものです。
このガラスのコップを見ても、本当はこのコップは刻々と変化しています。
誰かに出会った人も、またしばらく経ったあとでその人に出会ったときには、お互いに本当は変化しています。
川も、同じ川はありえません。
すべて、水は流れて、本当は川が同じ川ということはありません。

しかし、通常の場合、人間は、無常を見ることができずに、ものごとを変化していない、同じものごととして錯覚し、誤って見ます。
そのため、本当は自分も変わるし相手も変わるし、自分も相手もいつか無常で死んでいくのに、相手を邪魔だと思って、殺してしまったりします。
そして、その殺したという悪い行為の影響を自分が受けることになる場合があります。
これも無明だからです。

しかし、人間はただ無明の塊というわけではなく、瞑想をすることができます。
また、論理的に考えることもできます。
瞑想を行い心を清め、論理的に考えて良い結果を求め、より良い結果を出すことができます。


Q,しかし、無明だから本当の善はできない、雑毒の善しかできない、という理屈には、どう考えればいいのでしょうか?


A,その理屈でいくと、人間は勉強をすることもできなくなり、勉強しなくていいという話になります。
しかし、勉強すれば、論理的な知識が増えて、科学も発展し、いろんな結果が生じます。
人間はただの無明の塊ではなく、ものごとを考える力があります。
今から、良い方向を選択するか、悪い方向に流されるか、考えて選択する力があります。
動物は、たとえばここにある三つのテーブルを見ても、ただそのままを眺めるだけですが、人間はこのテーブルをくっつけてもっと大きなテーブルにしようと考えて、テーブルを動かし組み合わせをつくることもできます。
また、慈悲の心を瞑想でつくり、怒りの力を弱めれば、そこでひとつ煩悩から離れ、幸せが実現します。
動物は、ただ同じ流れに流されるだけのことが多いですが、人間はもっと広く考え、論理的に考えて、自分の運命を変える力があります。


Q,論理的に考えるというのは、ヨーニソー・マナンシカーラ(如理作意、仏教の専門用語のひとつ)のことでしょうか?

ヨーニソー・マナンシカーラは、注意深く見ることという意味です。
それだけでなく、他にも、ただ考えることや、論理的に考えることも、人間にはできます。

釈尊も、人間から努力して悟りをひらきました。
努力することで、自分が過去世に行った良い業も、支持業として働き始めます。
努力と支持業は、車の両輪のようなものです。
ですから、努力することが大事です。
それによって、良い方向に人生が変わっていきます。

人間は単なる無明の塊というだけではなく、努力し、よく考え、論理的に考え、注意深く見るという力があります。
その力によって、今ここから、自分の人生やものごとをより良く変えていく力が備わっています。


Q,私が、ときどき悩むのは、テーラワーダ仏教は本当に明晰で論理的で納得がいき、それに対して浄土真宗はどうもよくわからないことが多々あり、論理的にはかなり首をかしげることが多いのですが、時折、浄土真宗の在家の、長年お寺の御説法を聴いてきたような門徒のおばあさんや、良い御法話をされるおじいさんのお坊さんなどで、本当に慈悲深くて、とても優しい人がいます。そういう人たちの優しさや慈悲を見ていると、理屈ではよくわからないけれど、浄土真宗の中にも何か真実があるのかなぁという気がするのですが…。


A,慈悲深い人は、どの宗教の中にもいます。
キリスト教にもいます。
マザーテレサもそういう方でしたね。
心を落ち着け、暖かい気持ちになることは、キリスト教でもある程度できます。
キリスト教にも、イスラム教にも、ヒンズー教にも、優しい、慈悲のある人はいます。
浄土真宗にもありうると思います。
どの宗教でも、ある程度のところまでは慈悲を培い、高めることができます。
また、それらは教えによるというよりも、むしろその人自身の人生経験から慈悲の心が成長している場合もあります。
たとえば、学校の先生でも、その人の人生経験から、とても慈悲のある人はときどきいます。
それは、宗教というよりも、その人の人生経験や生活から培われている場合です。

慈悲の心は、宗教でなくても、その人の人生で高めることができます。
人の心には、心がけ練習すれば人生の中で慈悲の心を高めていく力がもともとあります。

しかし、仏教の慈悲は、他の宗教や人生で培われる慈悲よりもさらに先の、煩悩を離れて涅槃に達する智慧を教えます。
仏教は、煩悩から離れる慈悲を育てます。
どの宗教でもある程度のところまでは慈悲を高めることができますが、煩悩から離れた慈悲や智慧を育てるのが仏教の特色です。


Q,なるほど。浄土真宗では、南無阿弥陀仏という念仏を称えることを説くのですが…。

A,念仏は、もともとはブッダのサティ(念、気づき)から始まっています。
つまり、ブッダのお徳を讃えたことばを称え、念じることから始まりました。
しかし、ブッダのサティは、本当はそれらのことばの意味がわかっていないとできないので、出入息の瞑想よりもレベルの高い瞑想です。
しかし、伝わるうちに、もっと簡単な、南無阿弥陀仏だけということになっていきました。

大事なことは、浄土真宗にも、テーラワーダ仏教にも、そのひとつの中にがんじがらめに入り込まないようにして、真ん中の立場に立ち、自由に中立でものごとを見て、自分らしく考えることです。

良い点と弱点と、人生においては両方知ることが大事とお釈迦様は説いています。
たとえば、誰かと付き合うにも、その人について良い点と弱点と両方を観察することが大事です。
良い点だけしか観察していないと、その人の悪い点や弱点が出たときに戸惑ったり、いろんな感情が出ます。
しかし、弱点を知った上で良い点も知って付き合っていれば、うまくカバーしたり冷静に付き合うことができます。
宗教についても、良い点と弱点とを、中立の立場に立って、自分自身で、自分らしく観察していくことが、大事なことですので、自分自身で自分らしく観察していってください。




2、「“自己について正しく志向すること“についての質問」

(Qはあつし、Aはデニヤーイェ長老)

Q,吉祥経というお経の中に、
「適切な処に住むこと、前世で為された福業、自己について正しく志向すること、これが最上の吉祥です。」
という一節があります。
この中の、「自己について正しく志向すること」という語句の意味がよくわかりません。
どのような意味内容のことばなのでしょうか?

A,この「自己について正しく志向すること」というのは、四つのことから成り立っています。
努力、選択、責任、よく考え調べること。

この人生を、どういう目的でやるか、また、ビジネスや仕事もどういう目的でやるか、目的でやっていくのか、そのことをきちんと自分自身でよく考え調べ、決めて行うことが、この人生ではとても大事です。

そのことが、ここでいう「自己について正しく志向する」ということです。

ですから、以下の四つのことを、しっかり自分自身について考え、思いめぐらしてください。

1、よく調べる、研究する
2、選択する
3、選択したことを努力する
4、責任をとる

この四つに取り組む中で、人生の中で、自分が何が向いているのか、何を仕事とすべきか、迷う時期もあります。
迷って、いろんな方向を試して、失敗することもあります。
しかし、失敗することも、ちゃんと勉強になっています。
その失敗の経験や試行錯誤の経験を通じて、自分には何ができて、何ができないかを知ることができます。
そのひとつひとつが勉強であり、失敗のように見えて、実は勉強としては成功していることになります。

ですから、目的を定め、その目的についてよく調べ、調べたら何を行うか選択し、その選択したことに自ら努力し、その行為の結果に自分が責任をとる。
失敗をしたら、そこでまた調べなおして、自分で責任をとった行為から学んで、また新しく選択し、その選択に努力していけば、必ずいつか成功します。

以上のことをしっかり考えるのが、「自己について正しく志向する」ということです。



3、「前世の記憶や目に見えないものごとについて」

(この問答は、デニヤーイェ長老に、四人が次々に質問した、ひとつらなりの問答です。便宜上、小さく以下のように小分けしてメモしております。)

3-1  「“記憶”とは何か?」(Mさん)
3-2 「子どもに前世の記憶はあるのか?」(あつしの母)
3-3 「過去世退行催眠について」(あつし)
3-4 「石に霊みたいなものがつくことはあるのか?」(Kさん)


※ 3−1、「“記憶”とは何か?」
(QはMさん、Aはデニヤーイェ長老)

Q,長老、“記憶”というのはいったい何なのでしょうか?というのは、仏教では無我を説き、魂はないと言います。しかし、前世について瞑想をしていると思い出すことや、前世の記憶があるということが仏教では説かれたりします。魂がないとすると、この前世の“記憶”というものを、どう考えればいいのでしょうか?


A,仏教では、人が死ぬと、体から三つのものが離れると考えます。

1、寿命
2、体温
3、ヴィンニャーナ(識)

このヴィンニャーナは、ひとつの体が壊れたあとに、すぐにまた別の形をとります。
ですので、また別の形になった時に、瞑想や何かのきっかけで、ヴィンニャーナの中の、かつての記憶が見えることがあります。

古代のインドでは、瞑想をして、いろんな前世を思い出す人がいました。
彼らは、何か変わらない実体が自分の中にあると考え、そのアートマン(バラモン教・ヒンドゥー教で使われる用語。意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される)・魂が死んでもずっと変わらずに存在していると考えました。

しかし、実際には、変わらないものは何一つありません。
体を観察しても、どの部分もすべて変化していて、変化しないものはありませんし、変わらない魂が入っている場所もありません。
心を観察しても、感覚も、想念も、判断も、記憶も、すべて変化していくものであり、何一つとして変わらないものはありません。

お釈迦様はそのことを観察して、何一つ変化しないものはないということで、魂やアートマンのような変わらない実体が人間の中にあるという説を否定しました。
自分の中に変わらないものがあることを前提にして物事を探すと、変化を観察することができないということです。
ヴィンニャーナはただの流れです。

ヴィンニャーナは、いろんな感覚や思いや、私が決めたことなどの、いろんな塊の集まりです。
常に変化し、そして私自身が変えてつくりあげることができるものです。

また、魂には、特にキリスト教などでは、神がつくったものという考え方があります。
しかし、仏教では、ヴィンニャーナはべつに神がつくったものではなく、神とは関係ないと説きます。
ヴィンニャーナは、神がつくるものではなく、私がつくるもの、変化させることができるもの、いつも変化するもの、ということです。


※ 3−2 「子どもには前世の記憶があるのか?」
(Qはあつしの母、Aはデニヤーイェ長老)

Q,そうした前世があるとしますと、私の姪の子どもが、まだ生後十ヶ月ぐらいの時に、まだママぐらいしかことばがしゃべれない時に、絵本の中の大きな仏像の姿を見て、それを指さして「ブッダ!」と言ったことがあり、その時に側に私や姪や息子など、大人も何人かいてみんなびっくりしたことがあったのですが、これも前世の記憶だったのでしょうか?


A,その可能性はとても高いです。

スリランカでは、子どもが前世のことについて話すことはわりとよくあることで、周りも否定せずに自然と受けとめてあげます。
一方、日本だとあまり周囲の大人も肯定せず、否定的に受けとめたり無視するので、すぐに忘れてしまうようです。

たとえば、スリランカでは、あるところにとてもヘリコプターや飛行機を普通の子以上に怖がる子どもがいたので、ある程度ことばが話せるようになった時に親が、どうしてそんなにヘリコプターや飛行機が恐いのかと尋ねると、その子どもは前の人生でスリランカの北部のテロの起こっている地域の人で、政府軍のヘリコプターや飛行機に爆撃されて死んだので、今生はもうそういうことは嫌なので恐くて逃げているんだ、と答えたことがあったそうです。

また、私の知り合いの日本人のまだ小さな娘さんは、生れた直後何日間か、体が弱かったので保育器に入って親と隔離されていた時があったそうですが、だいぶ成長したあとに、知らないはずなのにふとその時のことを話だし、ガラスの箱に生れた直後に入っていて、お母さんに会えないんじゃないかととても不安だった、と話したそうです。
またその子は、とても賢い子で、いろんなお経をすぐに暗記して記憶しています。

ですので、子どもは、まだあんまり成長していなくて、体の感覚器官や言語が発達していない時でも、とてもいろんなことを覚えていたり、知っていたりすることがあります。
いろんな発明家や作曲家が、一番インスピレーションが湧く時間は、眠っている時間と目がさめて起きている時間の、ちょうど中間の、まだ十分醒めてもおらず寝てもおらずという時間だと言われています。
子どもは、たとえていうならば、その前の人生と、今生で大人になる中間の、人生におけるその時間帯のようなものです。
また、子どもは、あんまりいろんな情報にさらされていないので、大人になると今生での多くの情報にさらされて忘れてしまう前世のことを、比較的よく覚えている可能性はあります。

そのお子さんも、仏陀とすぐわかったのですから、前世でも仏教徒だった可能性は高いです。


※ 3−3 「過去世退行催眠について」
(Qはあつし、Aはデニヤーイェ長老)


Q,アメリカの精神科医の人が、前世療法や過去世退行催眠ということを言っておりまして、催眠をかけて誘導すると前世を思いだせるということを述べています。そのCDも売っていて、私もそのCDを流して自己催眠をかけてそのCDの中のことばの誘導に従っていったら、自分の妄想なのか、本当に過去世なのかはわかりませんが、いろんな映像やビジョンが見えたことがあります。これは、すべてのビジョンがそうではないとしても、中には前世の記憶が本当に見えたということもありえるのでしょうか?


A,あまりそうしたことはしない方がいいです。

というのは、瞑想をして心が十分に強くなってから前世が自然と見えるのはいいのですが、まだ心のレベルが十分に強くなっていない時に前世が見えると、いろんな影響が強すぎて、場合によっては心が病気になる危険もあります。
まだ十分に心のレベルが強くなっていない時に前世を見ると、前世のいろんな感情や影響が強すぎて、心が病気になったり、危険な場合があります。
また、私たちの目に見えている世界よりも、この世界は本当はとても広く、目に見えないものなどもいっぱいいます。
そうしたものが見えて、精神が不安になったり、こわがって悪い影響を受けてしまうこともあるので、そうしたことはあまりしない方がいいですね。

Q,目に見えないもの、と言いますと…。

A,こうした話はあまりしない方がいい場合もありますし、特に女性などは気にしてこわがって影響を受けてしまうこともあるので、人によってはしない方がいいのですが、

私たちが今見えいている世界は、本当はこの広い世界のごくごく一部です。
なぜ、一部しか見えず、一部しか感じていないかというと、そのことによって自分の身を守っているからです。

たとえば、いろんな動物が、洪水や地震の時に事前に察知して、早めに逃げ出したり姿を消したりする話はよく聞きますね。
あれは、人間に知覚できないだけで、なんらかの情報をキャッチしているからと考えられます。
また、先ほど話したようなある種の子どもは、たとえばスリランカで以前大洪水があった時に、洪水が起こることをあらかじめ紙に書いて記していた子どもがいて、とてもみんなびっくりしたことがありました。

そのように、瞑想でとても高いレベルに達した人には、普通の人には見えない、神々や餓鬼や、一般的には霊と言われるようなものが見えることがあります。

しかし、普通は気にする必要はありません。
なぜならば、人間の心の方が、そのような霊と言われるようなものよりも、ずっと強いからです。
人間の心さえ恐がったり、心が弱って気にしたりさえしなければ、それらのものは何も悪さはできません。

ただし、人間同士が、たとえば酒飲みと酒飲みが仲良くなったり、似たような性格同士の人が引き合うように、霊のようなものと人間も、同じような性格の人が引き合うことがあります。
家畜をいっぱい殺しているような文化の国や地域には、それにひかれて闘いや殺害を好む霊のようなものが引かれて集まることがあります。
また、低い程度の霊のようなものが、性格のあまり良くない人にとりついて、不思議な力を発揮する場合もあります。
そういう場合、人格と、その不思議な力の強さは必ずしも一致しない場合があります。
そうした場合は、そのとりついていたものが何かのきっかけでその人を離れると、急にその人が死ぬ場合もあります。



3−4「石に霊がつくことはあるのか?」
(QはKさん、Aはデニヤーイェ長老)

Q,人に霊のようなものがつくことがあるとしたら、石につくことはあるのでしょうか?というのは、うちの祖母が川原でお地蔵様を拾ってきて、今は庭に置いて一応お水をお供えしたりして御祀りしているのですが、気になって、川原に戻そうかと思ったこともあるのですが…。


A,石や物体に霊のようなものがつく可能性もあります。
そうしたものは、体がとても不安定なので、たとえば人間でも足腰がしっかりしていない人が杖をつくように、杖のようなものとして何かの石や物体につくことはありえます。

しかし、そうしたものは、全然気にする必要はありません。
なぜならば、そうしたものよりも、人間の心の力の方がずっと強いからです。

そのものが幸せでありますように、と願ってあげれば、決してそうしたものは人間に害をなしたり悪さをしたりすることはできません。
幸せを願ってあげれば、それで大丈夫です。

心が強ければ、世界はどんどん広くなり、広い世界が見えます。
一方、心が弱くなると、世界はどんどん狭くなってしまいます。
瞑想をし、慈悲の心を育てて、心の力を強めることが一番大切なことです。




4、「瞑想中に体がぴくっと動くことについて」
(Qはnoriさん、Aはデニヤーイェ長老)


Q,瞑想をしている時に、ときどき体がぴくっと動いたり、自分の意識とは関係ない方向に動くことがあります。これはいったい何なのでしょうか?また、このようなことがあってもいいのでしょうか?


A,それはよくあることです。
瞑想をして、心の力が強くなって、体よりも心の力が強くなってくると、時折そんな風に体が動くこともあります。
あまり気にせずに、そのまま戻って瞑想を続けてください。


5、「心が反対方向に動くことについて」
(Qはnoriさん、Aはデニヤーイェ長老)


Q,自分は時折、自分の意志とは反対方向に心が動くことがあります。たとえば厳粛な場面に逆に笑ってしまいそうになったり、本当は悲しいのにわざと逆のことをしようと心が動いたり、いろんな場合にそのようなことがあるのですが、これはいったい何なのでしょうか?どうすればいいのでしょうか?


A,人間の心には、そのような動きをすることがよくあります。

お釈迦様が悟りをひらく時に、いろんな美しい女性の姿をしたマーラ(魔)が現われたということはよく知られています。
文学的な表現や、あるいは絵画などにもそのように表現されていますが、パーリ仏典には、このマーラは自分の心の中から現われたと書かれています。
つまり、外にあるものではなく、自分の心の中の、自分の意志とは逆に働き、意志の邪魔をする働きをマーラと呼んでいるわけです。

たとえば、体についても、急に運動しようとある人が思って体育館に行って運動をすると、一日二日経つと筋肉痛が起こりますね。
せっかく運動をしようと思っていたのに、筋肉痛が起こって、あんまり動かさないように、逆の方向に人を引っ張ります。
自分の体の慣れた状態を保とうとします。
勉強についても同じことで、勉強しようと思うと、他のことがしたくなったり、気が散って他のことに興味が出てきたりすることは、人にはよくあることです。

これは、心にも、ある種の慣性のようなものがあり、今までと違ったことをしようとすると、今までの状態に戻して止めようとする働きが心にはあるということです。
心も、自分の慣れた状態に人を止めようとする働きがあります。

この、新しく何か良いことをしようとする時に、古い慣れた悪い状態に止めようと引っ張る慣性の心の働きをマーラと言います。

ですので、そうしたものが起こってきた時には、はっきりと今自分の心の中のマーラが働いているのだと自覚してください。
普通の人は、その自覚がそもそもないので、自覚があるだけでも大きく違います。
自覚して、しばらく抑えて、なおも強く意思し続ければ、マーラの働きは抑えられて、あとからは自由になっていきます。
そこまでがなかなか大変ですが、大切なことは、マーラが働いた時はその働きを自覚して、しっかりと目的を意志して努力を続けることです。



6、「天界から解脱することはあるかについて」
(Qはあつしの母、Aはデニヤーイェ長老)


Q,天界は、三十三天あると聴いたのですが、それは縦に階層となってあるのでしょうか?それとも横にあるのでしょうか、バラバラにあるのでしょうか?

A,一応、天界は、寿命の長さによって縦に区分されていると言われます。寿命のより長い、一日のあたりの時間が長いものが、より上の階層にあるということです。


Q,天界は解脱ができないと言われますが、天界の内部でちょっとずつ上に登って、一番最上階に行ってから、解脱することはできるのでしょうか?


A,天界は苦しみがないので、悟りへの心が起きないと言われています。

たとえば、中東の産油国の子どもは、中にはあまり勉強しない子どもがいるといいます。
なぜかといえば、働かなくてもいくらでもお金が手に入って、すべてに恵まれているので、努力する心が起こらない場合が多いからだそうです。
それに対して、南アジアの子どもは、努力して勉強して豊かな暮らしを目指す場合が多いです。

それと同じように、人間界は苦しみがあるので悟りへの心が起こりますが、天界は苦しみがないので、悟りへの心が起こりません。

仏典にお釈迦様の話を聞きに来る神々がいるのは、それは遠い昔に、過去仏の時代に人間だった時に説法を聴いて心地よかったり感動したことがあったので、その時の感覚にひかれてお釈迦様の説法を聴きに来ていたのですが、それだけの話で、解脱を求めていたわけではないということです。

最も仏教を聞いて悟りを目指すいろんな条件がそろっているのは、人間界です。


文責/あつし
posted by 管理人 at 03:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 法話
この記事へのコメント
大変勉強になりました。ありがとうございます。デニヤーイェ長老日本語が話せるのですね。
私が原始仏教を勉強する際に大変参考になったサイトがあるので紹介いたします。もし適切でなければ削除して下さい。
プッタタート比丘
http://space.geocities.jp/tammashart/index.html#
Posted by 慈しみ at 2010年05月16日 21:39
慈しみ様へ

コメント投稿していただき、こちらこそありがとうございました。お役に立てて幸いです。

ご紹介いただいたブッタタート比丘のサイトはまだ少し読んだだけですが、参考になりそうですね。勉強してみます。
Posted by Iマツ at 2010年06月09日 18:29
とてもためになる内容でした。
ありがとうございます。
Posted by 鹿野 at 2013年07月04日 01:36
あつしさん

パンニャーローカバンテの深いのに解りやすい御法話を、文書にして勉強会に来れなかった人たちに、広めて頂き有難うございます。

この功徳により、あつしさんが幸せに満たされますように。
Posted by mizumati at 2014年08月10日 08:46
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