2010年05月26日

5月23日 勉強会

5月23日の勉強会は、デニヤーイェ長老が御講師でした。
大雨にもかかわらず、常連メンバーだけでなく新規参加の方まで来てくださり、和気あいあいとした楽しい勉強会となりました。

午前中は、出入息の瞑想や、慈悲の瞑想、歩き瞑想。

午後は、「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)についての講義と、ダンマパダの第15〜20偈を勉強しました。

昼休みには、みんなそれぞれに食べ物やお菓子を持ち寄って、楽しいひとときを過ごしました。

勉強会の会場の少童神社には大きな楠木があるのですが、雨にもかかわらず鶯がやってきて、美しい声で鳴いていました。
昔の人の中には鶯の音色を「法を聴け、法を聴け」と聴いた人もいたそうです。
いつものことながら、デニヤーイェ長老の仏法についての解説は本当に目からウロコのことばかり。
あらためて、もっと瞑想をがんばり、仏教を勉強したいと思う一日でした。


【勉強会の内容】

※ A,「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)について

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/butsu-hou-toku.html


ダンマ・ワンダナー dhamma vandanā

ワンダナーとは、礼拝するという意味。
ダンマの特徴を思い出して礼拝するのが、ダンマ・ワンダナー。


1、 スワッカートー・バガワター・ダンモー svākkhāto bhagavatā dhammo
(善く、正しく説き示された教え)

バガワターは、世尊によって、
ダンモーは、ダンマ、法は、
という意味。

スワッカートー(svākkhāto)は、

su + akkhāto 

で、suは、正しく、うまく、よく、とい意味。
Akkhātoは、説かれた、説かれている。
という意味。

仏教の特徴として、最初も正しく、真ん中も正しく、最後も正しく説かれる、という特徴があります。
説法する時に、お釈迦様は常に、悟りという目的のために、貪瞋痴から離れる教えを説いたということです。

Suがつく言葉では、たとえば他に、スジャータ(sujāta)、つまり良く生れた、という意味の名前の、有名な方もいますね。
Suがつくと、善いという意味です。


2、 サンディッティコー sandiṭṭhiko
(実証できる教え)

実証できる、体験できる、といった意味です。

Sandiṭṭhikoという言葉をもっと詳しく見るならば、

saṃ (うまく) + diṭṭhiko (見る)

という言葉からできています。

つまり、

1、 うまく見ることができる
2、 秘密が無い、誰でも実際に見ることができる

という意味です。

お釈迦様の生きていた時代、多くの宗教の師は、自分の知っていることの一部分は弟子に教えないという風習がありました。
なぜならば、教えてしまうと弟子と自分が対等になってしまうという恐れがあり、自らの権威や利益のためにも秘密を保っておくということがあったからです。
しかし、お釈迦様は何の秘密もなく、すべて教える、という教え方をしたので、当時とても画期的でインパクトがありました。


3、 アカーリコー akāliko
(普遍性があり、永遠の教え)

a は 否定の意味。
Kālikoはさらに、kāla と ika に分けることのできる言葉で、
Kāla は 時間の意味。 
Ikaは、英語でいうと、副詞につく”~ly”みたいな言葉です。

つまり、akāliko
= untimely

ということになります。

時間によって左右されない、どれだけ時が経っても変わらない教え、真理であるということです。

大乗仏教には五時教判(注1)や末法思想(注2)という考え方がありますが、テーラーワーダ仏教においては、基本的にはそうしたことは説かれず、ダンマのレベルは下がらないと説かれています。
ただし、時代によって瞑想に興味を持つ人が多くなったり少なくなったりするということは言われますが、ダンマはどれだけ時が経っても常に有効であり普遍的な真理だと説かれています。

(注1) 天台宗などで言われるもので、釈尊は悟って後に、最初は華厳経の教えを説いたが、よく理解するものがなかったために、方便として阿含経の教えを説き、ついで方等経典、般若経典、最後に法華経と涅槃経が説かれたとし、法華経が最高の教えだとする経典整理の仕方。
(注2) 釈尊が教えを説き始めて千年間(あるいは五百年間)を正法、次の千年間を像法、その後の一万年間を末法、そののちは仏法が滅びるとする歴史観。正法の時代と比べて、徐々に人間の機根が劣っていくという下降史観である。


4、 エーヒパッシコー ehipassiko
(「来たれ見よ」と言える確かな教え)

来て見て、と見せることができる教えということです。

Ehi 来て
Passa 見て

他の宗教は、一般的に、信じてください、ということを言います。
しかし、仏教は、信じるものではなく、確かめてください、来て確かめてみてください、と言います。

たとえば、タイでは、よく在家の方が一時的に出家して、寺院で仏教の生活を体験します。
そのために、とても在家の人とお寺の関係が深く、親しいそうです。
実際に仏教を体験する機会が多くあることは良いことですね。

もっと言うならば、仏教においては、最初のうちは戒律はありませんでした。
お釈迦様は、35歳で悟りを開いてから55歳までの二十年間、一日に二時間しか睡眠をとることなく、教えを説き続けました。
その努力で、それまでバラモン教の国だったインドが、仏教の国になりました。
55歳になった時に、弟子の数も増え、問題を起こす者もでてきたので、戒をつくることになりましたが、それまでは、どういう目的で出家したかを思い出すお経をみんなで唱えることの他には、これといった戒めはありませんでした。
実際にサンガで生活することが、まずは重視されていたのです。


5、 オーパナイコー opanayiko
(実践者を涅槃に導く教え)

opanayikoは、

upa (まで) + naya (行かせる、持っていく) + ika

で、つまり解脱まで導かせる教え、ということです。


6、 パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー paccattaṃ veditabbo viññūhī
(賢者たちによって各自で悟られるべき教え)

paccattaṃ  個人的に
vedhitabbo 知るべきである 
viññūhī  賢者、賢い人

お釈迦様は、悟りまでの道をきちんと説明することができるし、心をパワーアップする方法を教えることはできますが、誰かを悟らせることはできないし、誰かの心をパワーアップすることもできない、努力するのは自分自身ですよ、ということです。

馬を水のところに連れて行くことはできるけれども、水を飲ませることはできない、ということはよく言われますね。

仏教は、悟るまでの道をきちんと説明してくれていますが、各自、自分自身が、それぞれ個人的に、実際に自分で修行して努力して、その成果を自分自身で得るしかないという教えです。


最後の偈文

jīvita pariyantaṃ saraṇaṃ gacchāmi
(私は生涯帰依します)

この箇所は、

jīvitam yāva nibbānan saraṇaṃ gacchāmi
(私は悟りに達するまで帰依します)

という表現も使います。

先の方の文章で、jīvitaは人生、pariyantaṃは最後まで、という意味なのですが、このjīvitaを悟りに達するまでの輪廻の人生すべてと解釈するならばいいのですが、ただこれだけだと、今の人生は仏法僧に帰依しても、次の人生はどうなるの?ということにもなりかねません。
後の文章の方が、正確にわかりやすいかもしれませんね。

悟りに達するまで、仏法僧に、この人生、および輪廻の中のどの人生も、ずっと帰依しますということが仏教においては正しいあり方です。


※ B、「ダンマパダ」 第十五〜二十偈 解説

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf


第十五偈
「ここに悩む、あとで(死後にも)悩む、悪をなすものは両方で悩む、
自分の汚れた行為を見て、彼は精神的にも、肉体的にも悩む。」

この偈は、もともとは、マガダ国のアジャータサットゥ王子について言われたものでした。
父のビンビサーラ王を死に追いやり、苦しむアジャータサットゥ(アジャセ)王子について述べられたものです。

Socatiとvihaññatiは、前者が精神的な苦しみで、後者は肉体的な苦しみということです。


第十六偈
「ここで喜ぶ、あとで(死後も)喜ぶ、善をなした人は両方で喜ぶ、
自分の清らかな行為を見て、彼は喜び、喜び満足する。」

この偈は、ダンミカというある在家の信者について述べられたものです。
彼は、お釈迦様の教えを聴き、きちんとした生活を送っていました。
心を清くするという目的をしっかり持って生きていました。
年をとっても悩みなく過ごしていました。

たまたまお坊さんたちがやってきた時に、読経してもらっていたら、ダンミカのところに神々がやってきたのが、ダンミカにのみ見えました。
神々は、ダンミカが多くの功徳を積んだ人なので、死後は自分たちの住む神々の国にやって来てくれるようにダンミカに言いにきたのですが、ダンミカは神々がお経を聴くことの邪魔になるので、「やめなさい」と言いました。
読経をしていたお坊さんたちはびっくりして、自分たちに言われたものと思い、お釈迦様のところに戻ってその顛末を話すと、お釈迦様は、あなたたちに言ったのではなく、こういうわけでダンミカは神々に言ったのだよ、と説き明かし、この偈をおっしゃいました。


第十七偈

「ここで悩み、あとで(死後にも)悩み、悪をなすものは両方で悩む。
“私は悪いことをした”と、悪趣に行ってさらに多く悩む。」

刑務所の人などは、犯罪を犯した時には悪いことをやっているという思いも自覚もなくても、あとから自覚ができてくると、このような気持ちでしょうね。

悪をなした人は、あとでその結果を受けます。

ただし、悪い結果から、ある程度人間は離れることもできます。

人間は、どうしても間違いは起こります。

しかし、仏教では、後悔することも悪いと説きます。
後悔をすると、前向きに動けなくなります。

もし、その行為をした時は悪とわからなくても、あとでわかったのならば、後悔はしないで、

1、 未来は二度とその行為をしない。もう一回やらないことを選択する。
2、 その悪かった行為の反対の、良い行為を行う。

という二つのことを心がけ、実行すべきです。

たとえば、親に口答えをして反抗し、あとで悪かったと思ったら、もう一回はやらないことを選択し、できるだけ親を喜ばせることを行っていくことです。

人生は、前向きにいくしかありません。
そのためには、

・ 後悔しない。
・ 悪かった行為の反対の良い行為をする

の二つが大事です。


第十八偈 

「ここで喜び、あとで(死後に)喜び、善をなした人は両方で喜ぶ。
“私は善を行った”と喜び、善趣に行ってさらに多く喜ぶ。」

この第十七、十八偈の善趣と悪趣というのは、アビンダマで言えば、善趣は天・人間であり、悪趣は地獄・餓鬼・畜生といったことになりますが、必ずしもそれだけに限らず、今よりも良い所と、今よりも悪い所、と理解すれば良いです。

同じ人間界でも、今よりも悪い境遇になれば悪趣に行ったということですし、今よりも善い境遇になれば善趣に行ったということです。
自分の行為で、悪趣ではなく、善趣に行くように心がけねばなりません。

ちなみに、ここで喜びを意味することばは、nanda(ナンダ)で、お釈迦様の弟子のアーナンダは喜びを与える人という意味の名前、お釈迦様の弟のナンダはこのナンダで喜びという意味の名前です。


第十九偈

「もし文献に関してたくさん話しても、実践する人にならないで、放逸な人であれば、
牛のお世話をする人が他人の持ち物の牛の数を数えるようなもので、沙門性の結果(仏教修行者の分け前、解脱)を得ることはない。」

これは、お釈迦様が出家者に対して述べた偈です。

たくさん知識があったり、本を読んでいても、実践しなければ意味が無いというのが仏教の教えです。
仏教は、実践の教えです。


第二十偈

「もしも少なく文献(教え)について語っても、ダンマをダンマに従って実践して、
貪瞋痴を捨てて、正知があり、よく清くした心があり、
ここに(今生に)、また後世に執着がないならば、彼は沙門性の結果(解脱)を得る人です。」

これは、出家者の特徴を述べています。
ダンマを実践し、貪瞋痴を離れ、良いサティ(正知)を持っている、
今世と来世を強く執着することなく、沙門性の結果を得る。
これが本当の出家者の特徴です。

本当の仏陀の教えかどうか、各自が自分で確認する方法があります。
その確認する方法とは、その教えが、貪瞋痴を減らせる教えかどうか、ということです。
仏教は、貪瞋痴を減らす道を教えるものです。
増える道だったら、仏教ではないということです。


※ C,瞑想について

(出入息の瞑想について)

息をする時に、鼻の感覚に集中してください。

(慈悲の瞑想について)

「生きとしいけるものが幸せでありますように」という一文が、慈悲の瞑想の鍵となる一文です。
この一文の中に、他の慈悲の瞑想のフレーズのすべても入っています。
もっと細かく実践したい人は、慈のみでなく、悲・喜・捨を育てるフレーズや、対象も私・私の親しい人々や、さらに詳しくいろんな形で念じても良いです。
しかし、他の悲・喜・捨を育てるフレーズや、私・私の親しい人々、といったすべての事柄は、この「生きとし生けるものが幸せでありますように」という一文には含まれています。

慈悲の瞑想を行うと、その瞑想の対象の人が幸せに変わるかどうかというと、必ずしもそうなるわけではありませんね。
しかし、慈悲の瞑想を行えば、その瞑想を行う人の自分自身の感覚には、変化がすぐに現われます。
相手に対する感覚や気持ちが変わるのです。

慈悲の瞑想を行うと、
自分の見方が変わってきますし、
自分が変化を獲得します。

慈悲の瞑想に慣れると、怒りたくなくなってきます。
怒るというものが心の中にあるから、人は怒るものが外にあったときに、怒るものとして見えてきます。
しかし、自分の心の内側に怒るというものがなければ、怒るものが外にあっても、怒るものに見えてこずに、その物事がよく観察できるようになります。
これが、慈悲の瞑想の大きな結果です。

慈悲の心を育てることが、人間としての価値ですし、良いところに生まれ変わる自信も生じてきます。
食べ物などの幸せは一時的なものですが、慈悲の幸せはずーっと続きます。


(瞑想全般について)

人は考えることに慣れていますし、かつ、世の中から常に考えるようにさせられています。
ですので、思考を止めること、つまり瞑想というものはけっこう難しいのです。

しかし、お釈迦様は、こんなたとえ話をされています。
赤ちゃんが、歩けるようになるために、何度も、ちょっと立ち上がって歩こうとして、また横になって休んで、また歩こうとして、繰り返し行います。
人が瞑想に慣れるのも、このようなものです。

瞑想も、毎日行い、心、身体、行為が瞑想になれることが大事です。
毎日、十五分ずつでも、瞑想を実践してください。

瞑想において、四つの邪魔(マーラ)があるといいます。
体の痛み、妄想、外からの音・邪魔、眠気、の四つです。
この四つに負けぬように、瞑想に慣れるまで努力してください。


【デニヤーイェ長老とのQ&A】

Q,(あつしの質問)

よく、成功哲学などで、積極的な思考を持っていると成功しやすくなる、ありありと良いイメージを思い描いて、明るい心を持つと人生はうまくいく、ということが述べられているのですが、仏教の観点から言えば、こうした意見はどうなのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

体には、心の状態の結果がすぐに現われるので、明るい心を持っていると、表情が明るくなって、元気で、その結果として物事がうまくいくということはありますね。
ですから、明るい心を持つことは、仏教でもとても大事にします。

しかし、何をもって明るいとするか、明るさの定義が、文化や社会によって違います。
たとえば、ある文化や社会では、物質的な生活を楽しみ、物質を享受するのが、明るいとされているかもしれません。
しかし、それはずっと続くものではなく、変化していくものです。
ですので、バランスが大事で、明るい心と、無常を観察する智慧などのバランスが大切なことです。

ただ、お釈迦様の時代に、こんな御話があります。
ダイバダッタが、お釈迦様に対して、もっと戒律を厳しくするように要請したことがありました。
しかし、お釈迦様は、悟るという目的に関係ないところで、むやみに厳しい戒律をつくることはしませんでした。
目的に関係ないところでがんじがらめになって陰鬱になるようなことはせずに、明るくのびのびと行うのが仏教であるということは言えるかもしれません。


Q,(Kさんの質問)
慈悲の瞑想の時に、イメージをふくらませて唱える方が良いのでしょうか?
それとも、ことばだけを追って唱える方が良いのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

どちらも良いことで、最初にイメージを持ち、徐々にことばで念じるようになっていけばいいです。
イメージを持つこともとても良いことです。

しかし、「私の嫌いな人々が幸せでありますように」や「私を嫌っている人々が幸せでありますように」というフレーズは、具体的にイメージを膨らませてしまうと、怒りが自分の心に生じてしまうかもしれません。
怒りは慈悲の反対で、かえってよくない結果を生じてしまいます。
ですから、この二つの対象を念じる時は、イメージをふくらませず、言葉だけによって唱えるようにしてください。



Q,(Sさんの質問)

仏典を読んでいたら、悟った人にはなんの願いも希望もない、ということが書かれた文章があったのですが、悟りは願うことではないのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

悟りは自分の内側で発見するものであり、自分以外の何か神や仏陀などが上から与えるものではありません。
願ってお祈りしたら、上から与えられるというようなものではありません。
ですので、悟りは願うというよりも、ダンマを実践して、発見するもの、ということです。


Q,(あつしの質問)

大乗仏教では、よく菩提心ということが言われていて、仏になることを願うことが大事だと強調される場合があるのですが、テーラワーダ仏教ではどうなのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

テーラワーダ仏教では、仏(=ブッダのこと)・辟支仏(びゃくしぶつ=師なくして独自にさとりを開いた人)・阿羅漢(=元々は「尊敬されるべき修行者」の意)・菩薩(=元々は「悟りを開く前の修行時代の仏陀」の意)の順番でした。

しかし、大乗仏教では、辟支仏と阿羅漢は自分だけの悟りを求めて利他を求めない者であり、利他を求める菩薩の方が格上であるという位置づけがされるようになり、仏・菩薩・辟支仏(=縁覚)・阿羅漢(=声聞)という順番になり、菩薩が仏をめざす者として二番目に来た、ということになりました。

ただし、テーラワーダ仏教においても、誰でも仏や阿羅漢になる可能性はないわけではないので、菩提心を起こす(仏になることを願う)ということが間違いだというわけではありません。

しかし、通常の場合、いきなり仏や阿羅漢を目指すということよりも、まずは地道に心を清くすることを目的にした方がいいかもしれませんね。

(以上)

(文責・あつし)
posted by 管理人 at 19:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 勉強会
この記事へのコメント
7/25ダンマ勉強会&瞑想会はお世話になりました。とても充実した1日を過ごすことができました。私は瞑想好きなので、歩く瞑想も次回は是非ご指導受けたいです。とりあえず、家で聞いたとおり練習してみます。
本日の勉強会の感想と、福岡ダンマサークルHP、山鹿での講習会情報へのリンクを弊ブログに載せましたので、訂正すべきことなどありましたらご助言おねがいいたします。
Posted by 園田・スダルチタ・姫未子 at 2010年07月25日 22:07
園田様

こんばんは。
HPの管理をさせてもらっています河津と申します。
先日の勉強会お疲れ様でした。
また、素敵なブログに感想と山鹿での講演会のご紹介をして下さり、ありがとうございます。
非常に助かります。

お時間の都合がつきましたら、是非また勉強会にご参加下さい。
コメントありがとうございました。
Posted by 河津 at 2010年07月30日 23:12
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