2010年09月11日

8月29日 勉強会

8月29日の勉強会は、サンレイクかすやで行われました。
御講師はウ・コーサッラ長老で、アビダンマについて講義していただきました。
参加者は十五名ほど。
最近参加するようになられた方や、新しい参加者の方が全体の三分の一ほどおられました。
活発な質疑応答が行われ、とてもためになる勉強会でした。




『勉強会の内容』

(今回の勉強会は、講義の途中に活発な質問があり、それに沿って長老もお話してくださったので、メモも講義の途中に質疑応答を入れる形で再現しています。Qが参加者からの質問、Aがウ・コーサッラ長老のお答えです。)




【今までの復習と三つ心の流れ】


心はどういう法則で変わり、生滅し、流れていくか。

勝義諦には、
心、心所、色、涅槃、
の四つがある。

このうち、心と心所を名(ナーマ、精神)と分類し、色(ルーパ、物質)と区別する。

涅槃に入らぬ限り、心は無間に生滅し続ける。
c.f. テーラワーダ仏教では中有(死んでから次に生まれ変わるまでの一定の期間)は説かない。

心の寿命 心刹那=大刹那=3小刹那
1小刹那=生・住・滅
色法(物質)の寿命は、心刹那の17倍。

スマナサーラ長老がよく「心は光の17倍」というのは、アビダンマのこの箇所から語られている。
光は色法の中で一番早いので、心の速さが色法の17倍ならば、光の17倍だろうということです。

心には三つの流れがある。

・有分心の流れ (有分心とは、五門や意門の流れの間に走る潜在的な心の流れのこと)
・五門の流れ  (眼耳鼻舌身)
・意門の流れ  (意識)

人は、三つの流れのどれかで生きている。これらが交互に繰り返す。
生きているうちは、三つのどれかが流れている。

このうち有分心は生きている間は同じ種類の異熟心が生じ別の種類には変わらない。

Q1,有分心が変わらないとすると、瞑想で育つのは意門の流れでしょうか?

A1,そうです。瞑想をすると、意門や五門の流れの速行心において大善心が生じるのが多くなります。速行心でどういう心が生じやすいか、それが修行によって変わり、心がどれだけ成長しているかということです。単に刺激に流されるだけでなく、善心が生じやすくなる。意門や五門の速行心の流れを良くする、質を高めるのが瞑想・修行ということです。

速行心で業をつくっています。

Q2,心は物質でしょうか?

A2,心は物質ではありません。非物質、あえていえば非物質のエネルギーです。

しかし、肉体に依存して生じています。テーラワーダは心と物質の二元論です。唯物論でもないし、唯心論でもないということです。



【意門路、如理作意について】


意門路には、明瞭か不明瞭か、二つの違いがある。

Q3, 意門路の明瞭・不明瞭の違いは何よって生じるのでしょうか?

A3, 主として心の状態が清浄であるかどうかによって違いますが、速行心に善心が生じるかどうかは意門引転心(確定心)が強いかどうか、つまり如理作意があるかどうかによります。
如理作意への努力の違い、それによる習慣の違いが確定心の強さ・作意作用の違いを生じさせます。

如理作意(ヨーニソー・マナンシカーラー)とは、瞬時に道理にかなった・仏法にかなった判断ができることで、その反対が非理作意(アヨーニソー・マナンシカーラ)で道理にかなわない仏法にかなわない判断です。

いわば、

如理作意 良い受けとめ方  その反応に続く心に良い心が生じる
非理作意 悪い受けとめ方  その反応に続く心に悪い心が生じる

ということです。

たとえば、如理作意が生じれば、失礼なことを言われても怒りが生じない。非理作意が生じると、失礼なことにはすぐ怒るということになります。

受け入れ方の違いのことです。

人から何か指摘されて、相手が正しいとわかっているけれどやっぱり腹が立つ、などということがしばしば日常生活にはありますが、その時は本当にはわかっていない心も瞬間に交じって生じているから腹が立つ、つまり非理作意が生じている、と考えられます。


Q4,如理作意を育てるためには、どうすればいいのでしょうか?

A4,瞑想や仏教を学ぶことですね。
もともと性格が良くて如理作意が生じやすい人が時折いますが、そういう人は過去世においてそうした努力や修行をしていたと考えられます。



【禅定について】


禅定の心

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → 種姓 → 禅定 → 有分心

このうち、遍作から種姓までを近行定、禅定を安止定と言う。

意門引転心にいかに良い心を生じさせるか?ということが大事だが、サマタ瞑想では禅定に達することができれば色界・無色界善心が速行作用として何度も生じることになる。

瞑想にはさまざまな種類があり、第五禅定まで達するものもあれば、第五禅定までは達さない瞑想法もあるが、目的に応じた瞑想を行うことが大事である。

初めて生じる意門路においては禅定心は一刹那一回しか生じない。


智慧が鋭い人は、遍作心なしに近行から始まることができる。
二回目からでも、有分心→意門→近行定→安止定の四つの段階を経る。

悟る瞬間の心は、

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → (種姓) → 道 → 果 → 果 → 有分心

となる。

この種姓の時に、凡から聖に心が切り替わる。
この時の種姓の心は、涅槃を対象にできる例外的な欲界心である。

道は一回、果は二度目からの果路から何度でも生じる。

悟りには四種類。
預流、一来、不還、阿羅漢。

預流道に達すると、邪見と疑を除く。
悪い世界に生まれる悪い業がもう機能しなくなる。

一来道に達すると、怒りや欲が弱くなる。

不還道に達すると、怒りを完全に取り除き通常の欲もすべてなくなる。(梵天界に転生する欲が残っている)

阿羅漢道は、一切の煩悩を取り除き完全な悟りに達する。




【質疑応答】


Q5, 何のために人は生まれるのでしょうか?

A5, テーラワーダ仏教においては、何のために生まれるかというより、無明と渇愛があると、自動的に生まれ変わると考えます。

つまり、生まれ変わること自体が苦であるという真理を見ることのできない根本である二つの煩悩、無明(無知)と渇愛(欲)があると、輪廻の仕組みの中で自動的に生まれ変わってきてしまうので、そこに目的や意味はないと考えます。

ただ、仕組み自体に意味はないとしても、生まれてきたからには、意味がある生き方をしていかなくてはいけない、
生きているという事実がある以上、意味のある生き方をすべき、つまり心を育て、悟りに達するという生き方をすべきではないかと私は考えます。

今生の目的とか意味は、いくら考えてもわからない。
もちろん、いろんな意味付けはできますが、それは意味付けであって、何かはじめからある意味や目的というのは、いくら考えてもわからないものです。
わからないことは考えなくてもいい。
ただ、生きてきた以上はなるべく意味のある生き方をしようと努力することが大切。
そう思いますが、いかがでしょうか?


Q6, 社会問題やニュースへの反応の仕方として、仏教では怒りが不善心だとすると、どのような問題やニュースにも怒らずに、慈しみの心でみんなと話し合って解決を目指すというのが、仏教的には正しいということになるのでしょうか?

A6, そうですね。
反応として、なんであれ、怒りは不善で、慈しみ・慈悲喜捨は善心です。

ニュースなどを見ていると、どうしても悲しいものや腹の立つことがあったり、それでもどうもしてあげられないことなどが多々あります。
その時は、少し離れたところから、いろんな原因や条件によって一時的にそういう状況にその人はあるということを冷静に受けとめ、業や

いろいろな条件で一時的にそうなっているのだと冷静に受けとめ、いたずらに怒ったり心の悪い波に巻き込まれないようにすることが、仏教的には大事なことです。

そのうえで、慈悲の心から、自分にできることを考えて、していくことでしょうね。


Q7, 他の仏教の宗派の人で、どう考えてもおかしいと思っていることを言っている人と議論をしていると、話が平行線になって、自分の心にも怒りが生じてしまうことがあるのですが…。

A7, 聞く耳を持った人には話すけれども、一度違うと言って向こうが聞く耳を持たないならほっておく。
それしかないと思います。

聞く耳を持った人には話すし、将来何かの縁になりますようにと思って話すことも大事かもしれませんが、基本的には興味を持った人にしか言わない方がいいかもしれません。

解釈は個々人の違いで自由なことですし、大乗仏教の中でさえ宗派によっていろんな違いがあり、その同じ宗派の中でもまたさまざまな違いがあるほどです。
土俵が違う場合は、プロレスと相撲のようにルールが違うので、話がかみあいません。

ただ、違う時は違うと言え、ということはお経にも書いてあります。

ですので、一応違うと一度言って、相手が聞く耳を持つかどうかによってそのうえさらにどうするか決めたらいいのではないでしょうか。



Q8, 私の家族で、大乗仏教の経典を毎日熱心に読経している者がいるのですが、そのような場合も何か意味はあるのでしょうか?

A8, 大乗の経典であろうと何によってであろうとも、その時にその人の心に善心が生じていれば、それが功徳になり、その功徳を回向すれば、先祖や亡くなった人にとって意味のある効果のある回向になっている可能性はあります。

善心が生じる=功徳。
その功徳を回向すると、さらにその功徳にプラスアルファの善心・功徳になります。



Q9、功徳を積むというのは、たとえばどういう行為でなされるのでしょうか?

A9, 瞑想や布施、アビダンマの学習なども功徳になります。




Q10、随喜は、繰り返しした方が良いのでしょうか?
また、たとえばお布施した人の名簿を見て、偉いなあと随喜すると、それも善心が生じたことになるのでしょうか?

A10, そうですね。
繰り返し随喜した方がより善心が生じます。
自分がかつて過去になした善行為についても、他人がなした善行為についても、随喜するたびに善心が生じ、善心が強まります。

また、他人の善行為に随喜すると、嫉妬する心を取り除きます。
その意味でも、善心となります。

お布施した人の名簿を見て随喜することも、善心が生じることになります。
本来は、お布施した人の名前を書いて掲げたりするのは、他の人も随喜しやすくしたり、本人があとであらためて随喜しやすくするためのものです。

日本では、よく陰徳を積むということが言われて、ことさら名前を隠すことを勧めたりしますが、あまり陰徳でないとだめだとこだわる必要もなく、どちらでもよいことで、大事なことは名誉欲からの布施ではなく随喜することを自他ともにしていくことが仏教においては大事です。
陰徳というのはもともとのテーラワーダ仏教にはないことで、おそらく中国などの伝統的な文化や儒教の影響ではないかと思われます。



Q11、ある人が戒にこだわるのは程度の低い仏教で、五戒などもしょせんは完璧に保つことができない以上、そのような戒は偽善に過ぎない、有身見を断てば戒にこだわる必要はなくなるので、まずは坐禅で有身見を断つようにすべきだ、ということを言っていたのですが…。

A11, テーラワーダ仏教においては、有身見つまり邪見は預流道で断たれるとしますが、預流道に達すれば自然と戒を守ることができるようになると考えるのであり、預流道に達したから戒を破ってよいなどということはありえませんし、そのような考え自体が邪見なのでそのような発言をする人は預流道ではないということになります。

戒は、身体と言葉をコントロールすることです。
心をコントロールするのは瞑想です。

たとえば、心の中でいろんな浮気のようなことを考えていても、実際に行動に移さなければ、五戒としては問題ないということになります。
ただし、心には不善心が生じていることになります。(不善心が生じるのを薦めているわけではありません)

ただ、心の問題は、心がけ次第ではなく、瞑想(慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想など)を行わないと、きちんとコントロールできないとテーラワーダでは考えます。

ですので、戒と瞑想と両方実践することは大事です。

悪い心が生じる根は、普通のレベルの瞑想ではどうすることもできません。
悟らない限りは、悪い心が生じる根を断つことはできません。
しかし、瞑想をして善い心が生じてくると、心の流れが変わってきます。

ですので、悟る前も戒と瞑想に努力することが大事ですし、預流道に達したら自然と戒を守ることができるようになり、悟りの四段階(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に応じて心の悪い根がより完全に断たれていきます。

悟ったら何もかも自由で、戒を破ってどんなことをしても良いなどというのは、テーラワーダ仏教ではありえないことと考えます。

(以上)

(文責・あつし)



posted by 管理人 at 17:27| Comment(3) | TrackBack(0) | 勉強会
この記事へのコメント
アップありがとうございます。
後ほど読んでみます。

☆生きとし生けるものが幸せでありますように☆
Posted by 慈悲と智慧 at 2010年09月13日 12:58
アップありがとうございます。
後ほど読ませて頂きます。

☆生きとし生けるものが幸せでありますように☆
Posted by 慈悲と智慧 at 2010年09月13日 13:01
申し訳ありません。二重投稿になってしまいました。
Posted by 慈悲と智慧 at 2010年09月13日 13:02
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