2010年09月16日

9月12日 勉強会

9月12日の勉強会は、少童神社で行われました。

前日まで東京で用事のあったデニヤーイェ長老は、今朝の飛行機で福岡に戻り、その足で勉強会まで来てくださりました。
初参加の方の個別の相談に別室で応じられたり、勉強会でもいつものことながら本当に素晴らしい講義と質問へのお答えをしてくださいました。

午前中は慈悲の瞑想やテーラワーダ仏教における「サッダー」(信)についての御法話。
午後からは、ダンマパダ第25偈についての講義。
および、勉強会終了のあと、夕方から長老に御時間をとっていただき、質疑応答を行いました。
その質疑応答については、別途将来小冊子にまとめる予定です。

秋になり、少し涼しくなってきたとはいえ、まだ暑い中での勉強会でしたが、大変充実した勉強会でした。


[勉強会の内容]
(文中、Qは参加者の質問、Aはデニヤーイェ長老のお答えです。)


【テーラワーダ仏教における“サッダー”(信)について】

前回、朝夕に瞑想を実践しようと思いながら、ついつい日常の出来事にまぎれて続けて実践することができず、途絶えがちになってしまうけれどどうす ればいいでしょうかという質問がありました。

仏教の勉強や瞑想を続けるうえで大きな支えになるものとして、また本格的な瞑想をなかなかすることができない時にも育て続けることができるものと して、

お釈迦様は「サッダー」(saddhā、信)ということを説かれています

仏教における信(サッダー)は、単に信ずることではなく、実際にその教えを自分で実践し、その良い結果を受け取りながら高めていくという性格のも のです。

サッダーを高める努力をすれば、日々の実践で煩悩から離れることができます。
しかし、サッダーがなくなること、サッダーからこぼれ落ちることは、いけないことだとテーラワーダ仏教では説かれます。

サッダーを高めるためには、いくつかの方法があります。

たとえば、一、二か月に一度、皆さんのように集まって、瞑想の実践や仏教の話を聞くことも大きな意味があります。
初期仏教において、および今でもテーラワーダ仏教の国々では、満月の日に、そのような集まりを持っています。
このことも、自分のサッダーの力を高めることになります。

サッダーの力を高めるとは、仏法僧に対する自信を高めることです。

自分ひとりでサッダーを高める方法には、三つあります。

ひとつめは、パリッタ、つまりお経を聴くことです。

これは、瞑想の代わりにもなりますし、功徳を得ることになります。
CDやPCからお経を聴くことも、そのひとつです。

パリッタの中で、最もよく唱えられるのは、「慈経」(メッタ・スッタ)です。他にも、宝経や吉祥経などがあります。

意味が分からなくても、お経を聴くだけで功徳があると言われています。
仏典には、動物がお経を聴いて、良い力を得たという話が出てきます。

意味がわかれば、そのお経によって良い思いが生じますから、なおのこと良い功徳があります。
意味がわかるまでは、意味がわからなくてもお経を聴くことはとても良いことだし、学習する機会があって意味がわかるようになればなお一層良いとい うことです。

勉強するチャンスがあり、お経の意味もわかって読むことは、とてもサッダーを高めることになります。
これが自分ひとりでサッダーを高める方法の二つ目のことです。

三つ目の、自分ひとりの時にサッダーを高める方法は、礼拝、つまり仏法僧に礼拝することです。
仏法僧に礼拝すると、サッダーの力が高まり、心が浄まります。


サッダーは、仏教の教えを実践する第一のステップです。
瞑想ができなくても、サッダーの力を高めることができます。

礼拝すると、自分で仏法僧から功徳を得ることができます。
瞑想ができない時は、礼拝でサッダーの力を高めることができます。

仏典の中に、サッダーの力が強くなることは、心の中に柱があるようなものだというたとえがあります。
ダンマ(法)を聴くことができない地域に行っても、サッダーがあれば大丈夫だと言われます。

今世に悟りを開くことを目的として一心不乱に努力する人は、とてもサッダーの強い人です。
しかし、普通はそうではないので、さきほど述べたような集会を時折行ったり、お経を聴いたり、学んだり、礼拝をすることによって、だんだんとサッ ダーを高めていくことが大事です。

そうして、良い結果を受け取りながら、サッダーを高めてから死ぬと、その力のおかげで、悪いところには生まれ変わらず、良いところに生まれ変わる し、今生きている間から良い人生になっていくと仏典には言われています。


Q1、大乗仏教の中の、たとえば浄土真宗においては、信心はあるかないかが大事とされて、あまり信心が高まったり深まったりすることは言われない 場合があります。テーラワーダ仏教では、サッダーはより高まるし、高めていくものであって、あんまりあるかないかということは重視されないという ことなのでしょうか?

A1、お釈迦様のお言葉に「来たれ、見よ」(エーヒ・パッシコー)というお言葉があります。
たしかに、最初に来るときは、ちょっと信じていないと来ることができませんから、最初にちょっと信じていることは大事ですね。
外側から仏教を見て、ちょっと信じて、まずは来るということです。
でも、そのあとに、見て、実践して、実際に自分自身が経験を受けとめ、その中でサッダーを高めていくことが大事です。
ただ信じるだけではなく、実際に良い結果を自分が受けとめていくことでサッダーを高めることがテーラワーダ仏教では説かれます。
最初にちょっと信じることは確かに仏教に来てみるために大事なことですが、いったん来たあとは、信心があるかないかより、行う中でサッダーを強め 高めていくことが大事だと、テーラワーダ仏教においては教えられています。


Q2、お経を聴くだけで功徳があるというのは、なかなかよくわからないのですが、たとえば日本ではお葬式の時に漢文の大乗仏教のお経を棒読みし て、大半の人は意味もよくわからずにいます、あれにあまり意味があるとも思えないのですが、意味はあるのでしょうか?

A2、音楽も、人の心に影響があります。
音は、人の心を静めたり、影響を与えることがありますね。

その中でも、特にお経は人間の心に良い影響を与えるといいます。

その理由として、三つのことが挙げられます。

一つは、仏陀の言葉であるから。
仏陀は、母親が自分のたったひとりの子どもを慈しむような慈悲で、ひとりひとりの衆生を慈しんでいました。
母親のことばに、子どもは、母親の慈愛のゆえに影響を受けますね。
私たちひとりひとりをそのような慈悲で見ている仏陀の言葉であるゆえに、影響力があると言われます。

二つ目は、すべてのお経は慈悲を持っているから。
すべての生きとし生けるものが幸せになりますようにと、ただそのことを願って言われた言葉だから。

三つ目は、ひとつひとつの語句・文章が、真実の意味であるから。
どの文章や語句をひとつとっても、すべて真実のことばである。

こうした三つの要素がもともとあるから、意味がわからなくても、心が良い影響を受け取るとテーラワーダ仏教では言われています。


Q3, この三つの点は、大乗仏教の経典にもあてはまるのでしょうか?それともあてはまらないのでしょうか?

A3、大乗仏教の経典は、大きく二つに分けることができます。

@、初期仏教の教えに関係ある大乗経典
A、初期仏教の教えに関係ない大乗経典

の二つです。

このうち、@のものであれば、仏陀の言葉・慈悲・真実という三つの要素を持っていないとは言い切れません。
しかし、Aのものであれば、上記の三つの点のどれにもならない可能性があります。

自分自身がどのようなお経を読むか、唱えるかということを考え判断するときは、

・仏陀の言葉であるか
・慈悲の思いであるか
・真実であるか

という三つの観点から選択し、どれを読むか決めることです。




【ダンマパダ 第25偈 講義】

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp24-32_V2.pdf

第25偈

uṭṭhānen' appamādena saṃyamena damena ca
dīpaṃ kayirātha medhāvī yaṃ ogho nābhikīrati.

「そして、奮い立つことによって、不放逸によって、自制によって、調御によって、
智慧ある人は、(自らを)暴流が破壊できないところの洲と為すべきである。」



この第25偈は、もともとは、瞑想で努力していてなかなか悟りの目的に達することができなかった人の心の変化のために、自分の心に流されないよう にするために、お釈迦様がお説きになった偈です。

パーリ語で、”ena”の語尾の変化は、「〜によって」という意味になります。

“yaṃ”は関係代名詞で、どのような島かの説明の文となります。

パーリ語の韻文は、一行に八音、四行で三十二音の韻律があります。
この偈もそうなっていますが、これはお釈迦様が16歳までは当時の古典的な教育を受けていたために、おのずとそうなったのでしょう。
当時は、言語の力のある人のみこのように正しく文章を書くことができました。

「暴流」(“ogha“)とは、煩悩の流れ、人が足をすくわれやすい煩悩の流れのことです。
心の中から出てくる洪水のようなものです。

暴流には四つあります。

無明(avijjā)
欲(kāma)
生(bhava) 
見(diṭṭhi)

“bhava”(生)とは、煩悩から離れていない普通の人は、ずっと生き続けたい、生まれ変わってもより良い形でもっともっと生きたい、という思 いがあることを指します。

“diṭṭhi”(見)とは、さまざまな概念や強い思いのことです。

心の中の四つの思いの洪水、この四つの暴流に流されている人は、輪廻に流されてしまいます。


Q4、努力や不放逸ということも「もっと」良くなりたいと思うことだと思いますが、bhava(
生)の「もっと」という欲求とどう区別をつけたら良いのでしょうか?

A4、「もっと」という思いには、二つあります。

1、 煩悩で流されてそう思ってしまうこと。
2、 煩悩から離れて、流されないでそう思うこと

1は、真実が見えなくなってしまいます。

ですので、自分は向上・努力と思いながらも、1であるならば、真実が見えていないことになってしまいます。

煩悩に流されることから、自分を守るために、努力・不放逸・調御に励むことが、2の意味の「もっと」ということです。



Q5、25偈の文章の「自制」と「調御」の違いがよくわからないのですが、どのような違いがあるのでしょうか?

A5、日本語にすると違いがわかりにくくなってしまいますが、パーリ語の原文だとかなり意味に違いがあります。

Saṃyama (自制)とは、ある程度考えることによって、自分で思考することで、流れを変えたり整えることができること。
Dama (調御)とは、より力を入れて、コントローする必要があることです。

たとえば、24時間漫画を読みたいとは思うけれど、そう怠けていては仕事も勉強もはからどらないし、あとで大変なことになると考えてやめることが saṃyama(自制)。
一方、肥満になった時に、ただ考えるだけではだめで、食事や運動に力を入れてコントロールすること、あるいは食事もその代わりとなる何かダイエッ ト食などを工夫するなど、単に考えるだけではだめで、かなり力を入れて実行することがdama(調御)です。

あるいは、自分でお酒の弊害をよく考えて検討して、それでお酒をやめるのはsaṃyama(自制)であり、
それに対して、自分ではなかなかやめることができないので、冷蔵庫の中のビールをすべて家族に捨ててもらうとか、思い切った手段をとることが、 dama(調御)と言えるかもしれませんね。


Q6, 25偈の中の「奮起、努力」(uṭṭhāna)と「不放 逸」(appamāda)の違いは何なのでしょうか?

A6、これも、日本語だと区別がわかりにくいかもしれませんが、パーリ語のもともとの意味だと、このような違いがあります。

Uṭṭhāna (努力)とは、今よりも力を入れること、今までにないことを実現しようと努力すること。
Appmāda(不放逸)とは、今より落ちないこと、今までの状態から落ちないようにする努力、という意味です。

一日八時間働いているのを十時間にするのはuṭṭhānaであり、何があろうと八時 間を続けるのがappamādaということです。


Q7, 不放逸とは、四六時中サティ(気づき)を入れることだという説明を聞いたことがあるのですが、そういう意味もあるのでしょうか?

A7, 仏教としての意味では、サティをずっと入れていることを不放逸だととらえることは、正しい解釈です。

サティをずっと入れることによって、人は失敗をせず、落ちずに生きていくことができます。

ただ、ブッダという言葉が、もともとの言葉は「わかった人」という意味の普通の言葉だったのが、仏教においては特に「悟った人」という意味である ように、不放逸が四六時中サティを入れることだというのは、仏教的な意味においてであり、もともとの辞書の言葉には必ずしも書いていないことで しょうね。


Q8, 努力や精進を指す言葉で、ヴィリヤ(viriya)という言葉もよく仏教において使われますが、このウッターナ (uṭṭhāna)とはどういう意味の違いがあるのでしょうか?

A8, Viriyaは、邪魔なものが来ても負けない努力のことです。
Uṭṭhānaは、今までないものを始める努力、新しく努めることです。


Q9、 四暴流の中の”kāma”は、しばしば日本の大乗仏教では「愛欲」と訳されていますが、欲であって愛欲ではないので しょうか?

A10、愛欲は、kāmaの中の一つです。
Kāmaの意味はもっと大きくて、愛欲はその中で確かにもっとも強いものではありますが、愛欲よりも広い意味で使われます。
おそらく、特にkāmaの中で愛欲はもっとも強いものなので、昔の日本の人が愛欲と訳したのかもしれません。


Q11、bhavaは「有」と訳されることも多いと思うのですが。

A11、「有」という訳も正しいです。
Bhavaは、生まれること、有ることに対する執着、生存への執着、次にあることへの執着です。


Q12, 現代人の中で、死んだあとのことは信じていないけれども、自分の名前をのこしたいと思ったり、銅像や碑文を建てたがるひとがしばしばい ますが、このような欲求もbhavaの一種でしょうか?

A12、自分の名前をのこしたいと思うことも、たしかにbhavaの一種です。
しかし、良いことをして、良い名前をのこすことは、良い影響をほかの人々に与える場合もあるので、良いことである場合もあります。

ただし、たとえば、昔の仏像や仏教美術の作品には、まったく作者の名前がのこっていないことが多いです。
その人たちは、世界のためにつくっておく、人々のためにつくる、という思いしかなく、自分を入れる考えはありませんでした。

今の美術作品は、ちょっとしたものでもすべて自分の名前が入っていますね。
Bhavaが働くことが必ずしも悪いとは言えませんが、良いものを人々にのこす気持ちが大切かもしれません。


Q13, “kāma“(欲)と、渇愛を意味するTaṅhāはどう違うのでしょう か?

Kāmaは、今現在の働き、今現在心に欲が働くことです。
Taṅhāは、そのもととなるもので、心の奥に働くものです。

Taṅhāという鍋の中で、kāmaが動き出すという表現があります。



お経は、何回も読むこと、考え直すことで、より広い意味が見えてきます。
ダンマパダも、繰り返し読み、味わってください。

(以上)

(文責・あつし)
posted by 管理人 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強会
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