2013年06月28日

高橋氏帰国報告会(第1回)

6月16日、かつてのサークル仲間である一時出家中の高橋氏を招いて、帰国報告会をしてもらいました。
前回も(たしか昨年)大変好評で1回の予定が3回に伸びた経緯があります。
今回も同様に3回の予定となりました。
次回第2回は7/14、第3回は8/11の予定です。
いつもながら大変興味深い内容で、安止定まで行った人同士では距離に関係なくコミュニケーションがとれるなど驚きのエピソードも。
遠くから参加の人も多いので15時で一旦報告は終わり、17時すぎまで質疑応答となりました。
私が声を掛けなければもっと長引いたかも、・・・
次回もそういう段取りになると思います。
参加してみませんか?
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2010年09月16日

9月12日 勉強会

9月12日の勉強会は、少童神社で行われました。

前日まで東京で用事のあったデニヤーイェ長老は、今朝の飛行機で福岡に戻り、その足で勉強会まで来てくださりました。
初参加の方の個別の相談に別室で応じられたり、勉強会でもいつものことながら本当に素晴らしい講義と質問へのお答えをしてくださいました。

午前中は慈悲の瞑想やテーラワーダ仏教における「サッダー」(信)についての御法話。
午後からは、ダンマパダ第25偈についての講義。
および、勉強会終了のあと、夕方から長老に御時間をとっていただき、質疑応答を行いました。
その質疑応答については、別途将来小冊子にまとめる予定です。

秋になり、少し涼しくなってきたとはいえ、まだ暑い中での勉強会でしたが、大変充実した勉強会でした。


[勉強会の内容]
(文中、Qは参加者の質問、Aはデニヤーイェ長老のお答えです。)


【テーラワーダ仏教における“サッダー”(信)について】

前回、朝夕に瞑想を実践しようと思いながら、ついつい日常の出来事にまぎれて続けて実践することができず、途絶えがちになってしまうけれどどうす ればいいでしょうかという質問がありました。

仏教の勉強や瞑想を続けるうえで大きな支えになるものとして、また本格的な瞑想をなかなかすることができない時にも育て続けることができるものと して、

お釈迦様は「サッダー」(saddhā、信)ということを説かれています

仏教における信(サッダー)は、単に信ずることではなく、実際にその教えを自分で実践し、その良い結果を受け取りながら高めていくという性格のも のです。

サッダーを高める努力をすれば、日々の実践で煩悩から離れることができます。
しかし、サッダーがなくなること、サッダーからこぼれ落ちることは、いけないことだとテーラワーダ仏教では説かれます。

サッダーを高めるためには、いくつかの方法があります。

たとえば、一、二か月に一度、皆さんのように集まって、瞑想の実践や仏教の話を聞くことも大きな意味があります。
初期仏教において、および今でもテーラワーダ仏教の国々では、満月の日に、そのような集まりを持っています。
このことも、自分のサッダーの力を高めることになります。

サッダーの力を高めるとは、仏法僧に対する自信を高めることです。

自分ひとりでサッダーを高める方法には、三つあります。

ひとつめは、パリッタ、つまりお経を聴くことです。

これは、瞑想の代わりにもなりますし、功徳を得ることになります。
CDやPCからお経を聴くことも、そのひとつです。

パリッタの中で、最もよく唱えられるのは、「慈経」(メッタ・スッタ)です。他にも、宝経や吉祥経などがあります。

意味が分からなくても、お経を聴くだけで功徳があると言われています。
仏典には、動物がお経を聴いて、良い力を得たという話が出てきます。

意味がわかれば、そのお経によって良い思いが生じますから、なおのこと良い功徳があります。
意味がわかるまでは、意味がわからなくてもお経を聴くことはとても良いことだし、学習する機会があって意味がわかるようになればなお一層良いとい うことです。

勉強するチャンスがあり、お経の意味もわかって読むことは、とてもサッダーを高めることになります。
これが自分ひとりでサッダーを高める方法の二つ目のことです。

三つ目の、自分ひとりの時にサッダーを高める方法は、礼拝、つまり仏法僧に礼拝することです。
仏法僧に礼拝すると、サッダーの力が高まり、心が浄まります。


サッダーは、仏教の教えを実践する第一のステップです。
瞑想ができなくても、サッダーの力を高めることができます。

礼拝すると、自分で仏法僧から功徳を得ることができます。
瞑想ができない時は、礼拝でサッダーの力を高めることができます。

仏典の中に、サッダーの力が強くなることは、心の中に柱があるようなものだというたとえがあります。
ダンマ(法)を聴くことができない地域に行っても、サッダーがあれば大丈夫だと言われます。

今世に悟りを開くことを目的として一心不乱に努力する人は、とてもサッダーの強い人です。
しかし、普通はそうではないので、さきほど述べたような集会を時折行ったり、お経を聴いたり、学んだり、礼拝をすることによって、だんだんとサッ ダーを高めていくことが大事です。

そうして、良い結果を受け取りながら、サッダーを高めてから死ぬと、その力のおかげで、悪いところには生まれ変わらず、良いところに生まれ変わる し、今生きている間から良い人生になっていくと仏典には言われています。


Q1、大乗仏教の中の、たとえば浄土真宗においては、信心はあるかないかが大事とされて、あまり信心が高まったり深まったりすることは言われない 場合があります。テーラワーダ仏教では、サッダーはより高まるし、高めていくものであって、あんまりあるかないかということは重視されないという ことなのでしょうか?

A1、お釈迦様のお言葉に「来たれ、見よ」(エーヒ・パッシコー)というお言葉があります。
たしかに、最初に来るときは、ちょっと信じていないと来ることができませんから、最初にちょっと信じていることは大事ですね。
外側から仏教を見て、ちょっと信じて、まずは来るということです。
でも、そのあとに、見て、実践して、実際に自分自身が経験を受けとめ、その中でサッダーを高めていくことが大事です。
ただ信じるだけではなく、実際に良い結果を自分が受けとめていくことでサッダーを高めることがテーラワーダ仏教では説かれます。
最初にちょっと信じることは確かに仏教に来てみるために大事なことですが、いったん来たあとは、信心があるかないかより、行う中でサッダーを強め 高めていくことが大事だと、テーラワーダ仏教においては教えられています。


Q2、お経を聴くだけで功徳があるというのは、なかなかよくわからないのですが、たとえば日本ではお葬式の時に漢文の大乗仏教のお経を棒読みし て、大半の人は意味もよくわからずにいます、あれにあまり意味があるとも思えないのですが、意味はあるのでしょうか?

A2、音楽も、人の心に影響があります。
音は、人の心を静めたり、影響を与えることがありますね。

その中でも、特にお経は人間の心に良い影響を与えるといいます。

その理由として、三つのことが挙げられます。

一つは、仏陀の言葉であるから。
仏陀は、母親が自分のたったひとりの子どもを慈しむような慈悲で、ひとりひとりの衆生を慈しんでいました。
母親のことばに、子どもは、母親の慈愛のゆえに影響を受けますね。
私たちひとりひとりをそのような慈悲で見ている仏陀の言葉であるゆえに、影響力があると言われます。

二つ目は、すべてのお経は慈悲を持っているから。
すべての生きとし生けるものが幸せになりますようにと、ただそのことを願って言われた言葉だから。

三つ目は、ひとつひとつの語句・文章が、真実の意味であるから。
どの文章や語句をひとつとっても、すべて真実のことばである。

こうした三つの要素がもともとあるから、意味がわからなくても、心が良い影響を受け取るとテーラワーダ仏教では言われています。


Q3, この三つの点は、大乗仏教の経典にもあてはまるのでしょうか?それともあてはまらないのでしょうか?

A3、大乗仏教の経典は、大きく二つに分けることができます。

@、初期仏教の教えに関係ある大乗経典
A、初期仏教の教えに関係ない大乗経典

の二つです。

このうち、@のものであれば、仏陀の言葉・慈悲・真実という三つの要素を持っていないとは言い切れません。
しかし、Aのものであれば、上記の三つの点のどれにもならない可能性があります。

自分自身がどのようなお経を読むか、唱えるかということを考え判断するときは、

・仏陀の言葉であるか
・慈悲の思いであるか
・真実であるか

という三つの観点から選択し、どれを読むか決めることです。




【ダンマパダ 第25偈 講義】

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp24-32_V2.pdf

第25偈

uṭṭhānen' appamādena saṃyamena damena ca
dīpaṃ kayirātha medhāvī yaṃ ogho nābhikīrati.

「そして、奮い立つことによって、不放逸によって、自制によって、調御によって、
智慧ある人は、(自らを)暴流が破壊できないところの洲と為すべきである。」



この第25偈は、もともとは、瞑想で努力していてなかなか悟りの目的に達することができなかった人の心の変化のために、自分の心に流されないよう にするために、お釈迦様がお説きになった偈です。

パーリ語で、”ena”の語尾の変化は、「〜によって」という意味になります。

“yaṃ”は関係代名詞で、どのような島かの説明の文となります。

パーリ語の韻文は、一行に八音、四行で三十二音の韻律があります。
この偈もそうなっていますが、これはお釈迦様が16歳までは当時の古典的な教育を受けていたために、おのずとそうなったのでしょう。
当時は、言語の力のある人のみこのように正しく文章を書くことができました。

「暴流」(“ogha“)とは、煩悩の流れ、人が足をすくわれやすい煩悩の流れのことです。
心の中から出てくる洪水のようなものです。

暴流には四つあります。

無明(avijjā)
欲(kāma)
生(bhava) 
見(diṭṭhi)

“bhava”(生)とは、煩悩から離れていない普通の人は、ずっと生き続けたい、生まれ変わってもより良い形でもっともっと生きたい、という思 いがあることを指します。

“diṭṭhi”(見)とは、さまざまな概念や強い思いのことです。

心の中の四つの思いの洪水、この四つの暴流に流されている人は、輪廻に流されてしまいます。


Q4、努力や不放逸ということも「もっと」良くなりたいと思うことだと思いますが、bhava(
生)の「もっと」という欲求とどう区別をつけたら良いのでしょうか?

A4、「もっと」という思いには、二つあります。

1、 煩悩で流されてそう思ってしまうこと。
2、 煩悩から離れて、流されないでそう思うこと

1は、真実が見えなくなってしまいます。

ですので、自分は向上・努力と思いながらも、1であるならば、真実が見えていないことになってしまいます。

煩悩に流されることから、自分を守るために、努力・不放逸・調御に励むことが、2の意味の「もっと」ということです。



Q5、25偈の文章の「自制」と「調御」の違いがよくわからないのですが、どのような違いがあるのでしょうか?

A5、日本語にすると違いがわかりにくくなってしまいますが、パーリ語の原文だとかなり意味に違いがあります。

Saṃyama (自制)とは、ある程度考えることによって、自分で思考することで、流れを変えたり整えることができること。
Dama (調御)とは、より力を入れて、コントローする必要があることです。

たとえば、24時間漫画を読みたいとは思うけれど、そう怠けていては仕事も勉強もはからどらないし、あとで大変なことになると考えてやめることが saṃyama(自制)。
一方、肥満になった時に、ただ考えるだけではだめで、食事や運動に力を入れてコントロールすること、あるいは食事もその代わりとなる何かダイエッ ト食などを工夫するなど、単に考えるだけではだめで、かなり力を入れて実行することがdama(調御)です。

あるいは、自分でお酒の弊害をよく考えて検討して、それでお酒をやめるのはsaṃyama(自制)であり、
それに対して、自分ではなかなかやめることができないので、冷蔵庫の中のビールをすべて家族に捨ててもらうとか、思い切った手段をとることが、 dama(調御)と言えるかもしれませんね。


Q6, 25偈の中の「奮起、努力」(uṭṭhāna)と「不放 逸」(appamāda)の違いは何なのでしょうか?

A6、これも、日本語だと区別がわかりにくいかもしれませんが、パーリ語のもともとの意味だと、このような違いがあります。

Uṭṭhāna (努力)とは、今よりも力を入れること、今までにないことを実現しようと努力すること。
Appmāda(不放逸)とは、今より落ちないこと、今までの状態から落ちないようにする努力、という意味です。

一日八時間働いているのを十時間にするのはuṭṭhānaであり、何があろうと八時 間を続けるのがappamādaということです。


Q7, 不放逸とは、四六時中サティ(気づき)を入れることだという説明を聞いたことがあるのですが、そういう意味もあるのでしょうか?

A7, 仏教としての意味では、サティをずっと入れていることを不放逸だととらえることは、正しい解釈です。

サティをずっと入れることによって、人は失敗をせず、落ちずに生きていくことができます。

ただ、ブッダという言葉が、もともとの言葉は「わかった人」という意味の普通の言葉だったのが、仏教においては特に「悟った人」という意味である ように、不放逸が四六時中サティを入れることだというのは、仏教的な意味においてであり、もともとの辞書の言葉には必ずしも書いていないことで しょうね。


Q8, 努力や精進を指す言葉で、ヴィリヤ(viriya)という言葉もよく仏教において使われますが、このウッターナ (uṭṭhāna)とはどういう意味の違いがあるのでしょうか?

A8, Viriyaは、邪魔なものが来ても負けない努力のことです。
Uṭṭhānaは、今までないものを始める努力、新しく努めることです。


Q9、 四暴流の中の”kāma”は、しばしば日本の大乗仏教では「愛欲」と訳されていますが、欲であって愛欲ではないので しょうか?

A10、愛欲は、kāmaの中の一つです。
Kāmaの意味はもっと大きくて、愛欲はその中で確かにもっとも強いものではありますが、愛欲よりも広い意味で使われます。
おそらく、特にkāmaの中で愛欲はもっとも強いものなので、昔の日本の人が愛欲と訳したのかもしれません。


Q11、bhavaは「有」と訳されることも多いと思うのですが。

A11、「有」という訳も正しいです。
Bhavaは、生まれること、有ることに対する執着、生存への執着、次にあることへの執着です。


Q12, 現代人の中で、死んだあとのことは信じていないけれども、自分の名前をのこしたいと思ったり、銅像や碑文を建てたがるひとがしばしばい ますが、このような欲求もbhavaの一種でしょうか?

A12、自分の名前をのこしたいと思うことも、たしかにbhavaの一種です。
しかし、良いことをして、良い名前をのこすことは、良い影響をほかの人々に与える場合もあるので、良いことである場合もあります。

ただし、たとえば、昔の仏像や仏教美術の作品には、まったく作者の名前がのこっていないことが多いです。
その人たちは、世界のためにつくっておく、人々のためにつくる、という思いしかなく、自分を入れる考えはありませんでした。

今の美術作品は、ちょっとしたものでもすべて自分の名前が入っていますね。
Bhavaが働くことが必ずしも悪いとは言えませんが、良いものを人々にのこす気持ちが大切かもしれません。


Q13, “kāma“(欲)と、渇愛を意味するTaṅhāはどう違うのでしょう か?

Kāmaは、今現在の働き、今現在心に欲が働くことです。
Taṅhāは、そのもととなるもので、心の奥に働くものです。

Taṅhāという鍋の中で、kāmaが動き出すという表現があります。



お経は、何回も読むこと、考え直すことで、より広い意味が見えてきます。
ダンマパダも、繰り返し読み、味わってください。

(以上)

(文責・あつし)
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2010年09月11日

8月29日 勉強会

8月29日の勉強会は、サンレイクかすやで行われました。
御講師はウ・コーサッラ長老で、アビダンマについて講義していただきました。
参加者は十五名ほど。
最近参加するようになられた方や、新しい参加者の方が全体の三分の一ほどおられました。
活発な質疑応答が行われ、とてもためになる勉強会でした。




『勉強会の内容』

(今回の勉強会は、講義の途中に活発な質問があり、それに沿って長老もお話してくださったので、メモも講義の途中に質疑応答を入れる形で再現しています。Qが参加者からの質問、Aがウ・コーサッラ長老のお答えです。)




【今までの復習と三つ心の流れ】


心はどういう法則で変わり、生滅し、流れていくか。

勝義諦には、
心、心所、色、涅槃、
の四つがある。

このうち、心と心所を名(ナーマ、精神)と分類し、色(ルーパ、物質)と区別する。

涅槃に入らぬ限り、心は無間に生滅し続ける。
c.f. テーラワーダ仏教では中有(死んでから次に生まれ変わるまでの一定の期間)は説かない。

心の寿命 心刹那=大刹那=3小刹那
1小刹那=生・住・滅
色法(物質)の寿命は、心刹那の17倍。

スマナサーラ長老がよく「心は光の17倍」というのは、アビダンマのこの箇所から語られている。
光は色法の中で一番早いので、心の速さが色法の17倍ならば、光の17倍だろうということです。

心には三つの流れがある。

・有分心の流れ (有分心とは、五門や意門の流れの間に走る潜在的な心の流れのこと)
・五門の流れ  (眼耳鼻舌身)
・意門の流れ  (意識)

人は、三つの流れのどれかで生きている。これらが交互に繰り返す。
生きているうちは、三つのどれかが流れている。

このうち有分心は生きている間は同じ種類の異熟心が生じ別の種類には変わらない。

Q1,有分心が変わらないとすると、瞑想で育つのは意門の流れでしょうか?

A1,そうです。瞑想をすると、意門や五門の流れの速行心において大善心が生じるのが多くなります。速行心でどういう心が生じやすいか、それが修行によって変わり、心がどれだけ成長しているかということです。単に刺激に流されるだけでなく、善心が生じやすくなる。意門や五門の速行心の流れを良くする、質を高めるのが瞑想・修行ということです。

速行心で業をつくっています。

Q2,心は物質でしょうか?

A2,心は物質ではありません。非物質、あえていえば非物質のエネルギーです。

しかし、肉体に依存して生じています。テーラワーダは心と物質の二元論です。唯物論でもないし、唯心論でもないということです。



【意門路、如理作意について】


意門路には、明瞭か不明瞭か、二つの違いがある。

Q3, 意門路の明瞭・不明瞭の違いは何よって生じるのでしょうか?

A3, 主として心の状態が清浄であるかどうかによって違いますが、速行心に善心が生じるかどうかは意門引転心(確定心)が強いかどうか、つまり如理作意があるかどうかによります。
如理作意への努力の違い、それによる習慣の違いが確定心の強さ・作意作用の違いを生じさせます。

如理作意(ヨーニソー・マナンシカーラー)とは、瞬時に道理にかなった・仏法にかなった判断ができることで、その反対が非理作意(アヨーニソー・マナンシカーラ)で道理にかなわない仏法にかなわない判断です。

いわば、

如理作意 良い受けとめ方  その反応に続く心に良い心が生じる
非理作意 悪い受けとめ方  その反応に続く心に悪い心が生じる

ということです。

たとえば、如理作意が生じれば、失礼なことを言われても怒りが生じない。非理作意が生じると、失礼なことにはすぐ怒るということになります。

受け入れ方の違いのことです。

人から何か指摘されて、相手が正しいとわかっているけれどやっぱり腹が立つ、などということがしばしば日常生活にはありますが、その時は本当にはわかっていない心も瞬間に交じって生じているから腹が立つ、つまり非理作意が生じている、と考えられます。


Q4,如理作意を育てるためには、どうすればいいのでしょうか?

A4,瞑想や仏教を学ぶことですね。
もともと性格が良くて如理作意が生じやすい人が時折いますが、そういう人は過去世においてそうした努力や修行をしていたと考えられます。



【禅定について】


禅定の心

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → 種姓 → 禅定 → 有分心

このうち、遍作から種姓までを近行定、禅定を安止定と言う。

意門引転心にいかに良い心を生じさせるか?ということが大事だが、サマタ瞑想では禅定に達することができれば色界・無色界善心が速行作用として何度も生じることになる。

瞑想にはさまざまな種類があり、第五禅定まで達するものもあれば、第五禅定までは達さない瞑想法もあるが、目的に応じた瞑想を行うことが大事である。

初めて生じる意門路においては禅定心は一刹那一回しか生じない。


智慧が鋭い人は、遍作心なしに近行から始まることができる。
二回目からでも、有分心→意門→近行定→安止定の四つの段階を経る。

悟る瞬間の心は、

有分心 → 意門 → 遍作 → 近行 → 随順 → (種姓) → 道 → 果 → 果 → 有分心

となる。

この種姓の時に、凡から聖に心が切り替わる。
この時の種姓の心は、涅槃を対象にできる例外的な欲界心である。

道は一回、果は二度目からの果路から何度でも生じる。

悟りには四種類。
預流、一来、不還、阿羅漢。

預流道に達すると、邪見と疑を除く。
悪い世界に生まれる悪い業がもう機能しなくなる。

一来道に達すると、怒りや欲が弱くなる。

不還道に達すると、怒りを完全に取り除き通常の欲もすべてなくなる。(梵天界に転生する欲が残っている)

阿羅漢道は、一切の煩悩を取り除き完全な悟りに達する。




【質疑応答】


Q5, 何のために人は生まれるのでしょうか?

A5, テーラワーダ仏教においては、何のために生まれるかというより、無明と渇愛があると、自動的に生まれ変わると考えます。

つまり、生まれ変わること自体が苦であるという真理を見ることのできない根本である二つの煩悩、無明(無知)と渇愛(欲)があると、輪廻の仕組みの中で自動的に生まれ変わってきてしまうので、そこに目的や意味はないと考えます。

ただ、仕組み自体に意味はないとしても、生まれてきたからには、意味がある生き方をしていかなくてはいけない、
生きているという事実がある以上、意味のある生き方をすべき、つまり心を育て、悟りに達するという生き方をすべきではないかと私は考えます。

今生の目的とか意味は、いくら考えてもわからない。
もちろん、いろんな意味付けはできますが、それは意味付けであって、何かはじめからある意味や目的というのは、いくら考えてもわからないものです。
わからないことは考えなくてもいい。
ただ、生きてきた以上はなるべく意味のある生き方をしようと努力することが大切。
そう思いますが、いかがでしょうか?


Q6, 社会問題やニュースへの反応の仕方として、仏教では怒りが不善心だとすると、どのような問題やニュースにも怒らずに、慈しみの心でみんなと話し合って解決を目指すというのが、仏教的には正しいということになるのでしょうか?

A6, そうですね。
反応として、なんであれ、怒りは不善で、慈しみ・慈悲喜捨は善心です。

ニュースなどを見ていると、どうしても悲しいものや腹の立つことがあったり、それでもどうもしてあげられないことなどが多々あります。
その時は、少し離れたところから、いろんな原因や条件によって一時的にそういう状況にその人はあるということを冷静に受けとめ、業や

いろいろな条件で一時的にそうなっているのだと冷静に受けとめ、いたずらに怒ったり心の悪い波に巻き込まれないようにすることが、仏教的には大事なことです。

そのうえで、慈悲の心から、自分にできることを考えて、していくことでしょうね。


Q7, 他の仏教の宗派の人で、どう考えてもおかしいと思っていることを言っている人と議論をしていると、話が平行線になって、自分の心にも怒りが生じてしまうことがあるのですが…。

A7, 聞く耳を持った人には話すけれども、一度違うと言って向こうが聞く耳を持たないならほっておく。
それしかないと思います。

聞く耳を持った人には話すし、将来何かの縁になりますようにと思って話すことも大事かもしれませんが、基本的には興味を持った人にしか言わない方がいいかもしれません。

解釈は個々人の違いで自由なことですし、大乗仏教の中でさえ宗派によっていろんな違いがあり、その同じ宗派の中でもまたさまざまな違いがあるほどです。
土俵が違う場合は、プロレスと相撲のようにルールが違うので、話がかみあいません。

ただ、違う時は違うと言え、ということはお経にも書いてあります。

ですので、一応違うと一度言って、相手が聞く耳を持つかどうかによってそのうえさらにどうするか決めたらいいのではないでしょうか。



Q8, 私の家族で、大乗仏教の経典を毎日熱心に読経している者がいるのですが、そのような場合も何か意味はあるのでしょうか?

A8, 大乗の経典であろうと何によってであろうとも、その時にその人の心に善心が生じていれば、それが功徳になり、その功徳を回向すれば、先祖や亡くなった人にとって意味のある効果のある回向になっている可能性はあります。

善心が生じる=功徳。
その功徳を回向すると、さらにその功徳にプラスアルファの善心・功徳になります。



Q9、功徳を積むというのは、たとえばどういう行為でなされるのでしょうか?

A9, 瞑想や布施、アビダンマの学習なども功徳になります。




Q10、随喜は、繰り返しした方が良いのでしょうか?
また、たとえばお布施した人の名簿を見て、偉いなあと随喜すると、それも善心が生じたことになるのでしょうか?

A10, そうですね。
繰り返し随喜した方がより善心が生じます。
自分がかつて過去になした善行為についても、他人がなした善行為についても、随喜するたびに善心が生じ、善心が強まります。

また、他人の善行為に随喜すると、嫉妬する心を取り除きます。
その意味でも、善心となります。

お布施した人の名簿を見て随喜することも、善心が生じることになります。
本来は、お布施した人の名前を書いて掲げたりするのは、他の人も随喜しやすくしたり、本人があとであらためて随喜しやすくするためのものです。

日本では、よく陰徳を積むということが言われて、ことさら名前を隠すことを勧めたりしますが、あまり陰徳でないとだめだとこだわる必要もなく、どちらでもよいことで、大事なことは名誉欲からの布施ではなく随喜することを自他ともにしていくことが仏教においては大事です。
陰徳というのはもともとのテーラワーダ仏教にはないことで、おそらく中国などの伝統的な文化や儒教の影響ではないかと思われます。



Q11、ある人が戒にこだわるのは程度の低い仏教で、五戒などもしょせんは完璧に保つことができない以上、そのような戒は偽善に過ぎない、有身見を断てば戒にこだわる必要はなくなるので、まずは坐禅で有身見を断つようにすべきだ、ということを言っていたのですが…。

A11, テーラワーダ仏教においては、有身見つまり邪見は預流道で断たれるとしますが、預流道に達すれば自然と戒を守ることができるようになると考えるのであり、預流道に達したから戒を破ってよいなどということはありえませんし、そのような考え自体が邪見なのでそのような発言をする人は預流道ではないということになります。

戒は、身体と言葉をコントロールすることです。
心をコントロールするのは瞑想です。

たとえば、心の中でいろんな浮気のようなことを考えていても、実際に行動に移さなければ、五戒としては問題ないということになります。
ただし、心には不善心が生じていることになります。(不善心が生じるのを薦めているわけではありません)

ただ、心の問題は、心がけ次第ではなく、瞑想(慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想など)を行わないと、きちんとコントロールできないとテーラワーダでは考えます。

ですので、戒と瞑想と両方実践することは大事です。

悪い心が生じる根は、普通のレベルの瞑想ではどうすることもできません。
悟らない限りは、悪い心が生じる根を断つことはできません。
しかし、瞑想をして善い心が生じてくると、心の流れが変わってきます。

ですので、悟る前も戒と瞑想に努力することが大事ですし、預流道に達したら自然と戒を守ることができるようになり、悟りの四段階(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に応じて心の悪い根がより完全に断たれていきます。

悟ったら何もかも自由で、戒を破ってどんなことをしても良いなどというのは、テーラワーダ仏教ではありえないことと考えます。

(以上)

(文責・あつし)



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2010年08月03日

7月25日 勉強会

7月25日は、少童神社で勉強会が行われました。
今回はじめて来て下さった方5名を含め、参加者は15人。
御講師はデニヤーイェ長老でした。

ダンマパダ講義や慈悲の瞑想は冷房の入る部屋で行いましたが、呼吸の瞑想は冷房のない大きな部屋で行いました。
しかし、窓を開け放ったところ、意外に少童神社の大きなクスノキの木陰を通って吹いてくる風は涼しく、快適に瞑想を行うことができました。

食事の時間はみんなでいろんな食べ物やお菓子を持ち寄り、和気あいあいと楽しいひとときを過ごしました。


【勉強会の内容】

1, 慈悲の瞑想について

参照
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

人間は、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根から情報をとりいれ、 それらに対して好き・嫌いの感情、つまり煩悩を起こして生きています。

仏教では、こうした煩悩、つまり欲望(好き)や怒り(嫌い)といった思 考・感情から離れることが幸福だと説きます。
欲望や怒りの思考から離れた分、静かな落ち着いた心、つまり 幸福が実現すると説きます。

しかし、悪い考えを止め、良い考えを心に起こすことは、その ままではけっこう難しいものです。

そこで、良い言葉を唱え、悪い思考を止めて良い思考をそこに 起きるようにすることを教えます。
良い言葉を唱えると、わりと難しくなく悪い思考を止め良い思 考を育む実践ができます。

慈悲の瞑想は、まさにそうした実践です。



(慈悲の瞑想に関するQ&A)
(Qは参加 者。Aはデニヤーイェ長老)

Q, 慈悲の瞑想は言葉に出した方が良いのでしょうか?

A, 最初のうちは,慣れるまで声に出した方が良いです。慣れてきたら、必ずしも声に出さなくてもいいです。


Q,慈悲の 瞑想を唱える時の、音やメロディはどうしたらいいでしょうか?

A,静かな 心が伴うものが良いです。なんでも良いというわけではありませんが、心が静まるものであればある程度自由で良いと思います。


Q, ウペッカー(捨)の瞑想が具体的にイメージをつかみにくいのですが、どう考えたらいいのでしょうか?

A,ウペッ カーをイメージするとすれば、空です。何もない、空そのもののが、あえていえばウペッカーのイメージです。否定的でもなく、楽天的で もなく、どちらでもない智慧の状態がウペッカーです。ですので、一番悟りに近い感情と言われます。


Q, 慈悲の瞑想で先祖や他人に良い影響を与えることはできるのでしょうか?

A, 仏陀は,慈悲の心で強い影響をいろんな生命に与えることができました。自分の心の力が強まれば、場合によっては強い影響を与えること もできるでしょう。ただ、仮に他人に影響を与えなくても、慈悲の瞑想によって確実に自分の心は清まり良い影響を受けます。そのことに よって、結果として、良い影響を周囲に与えていくこ とはありえます。

Q, お経はマントラでしょうか?

A, マントラは人のつくったもの。お経は悟った人・仏陀のお言葉です。


Q, 嫌いな人々が特にいない場合も,慈悲の瞑想は嫌いな人々に対しても行った方が良いでしょうか?

A, もともとのお経は、「人」に限らないで、もっと広いいろんな存在を含めて慈悲の心を育むことが説かれています。たとえば、蛇がきらい だったら蛇や、嫌いなもの一切を,あるいはいてもいなくても関係ないと思っている,影響を受けていないと思っている一切のものに対し て、それでは慈悲 の心を育んでみると良いのではないでしょうか。




2,Saṅgha vandanā(僧伽の九徳)の解説

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/sanga-9toku.html

Saṅgha vandanāは,仏弟子たちの特徴について述べられた偈です。
もともとは、神様が仏法僧に唱えたもので、それを聴いて良いと思ったので人々が仏法僧を讃える時に使うようになったと伝えられています。

Saṅghaは、弟子たち、グループの意。
vandanāは礼拝。

Supaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho

Suは良い,正しい。
paṭipannoは,乗った人、入った人。実践する人の意味。
Paṭipadāは道に入っている「事」の名詞で、paṭipannoは道に入っている、その道にもう乗っている「人」を指す名詞です。
つまり、Supaṭipannoは正しい道を実践する人。

bhagavatoは、世尊の。
sāvakaは声聞。聞いて学ぶ人。古代は基本的に口伝で口伝えでいろんな知識の伝達がなされたので、先生そのものが教科書でした。
saṅghoは、Saṅghaのことで、グループ,教団の意味。

Ujuは真っすぐ。
つまり、Ujupaṭipannoは、真っすぐに、悟りを開く目標で道に入っている人、の意味。
在家の場合は、悟りよりも天界に生まれたいとか世俗的な幸福を功徳を積むことによって求めたい気持ちがある場合もありますが、お釈迦様のおられた頃の出家者は,悟りをまっすぐに目指す人々であったということです。

Ñāyaは,修行。
Ñāyapaṭipannoは、修行をやりながら道に入っている人ということ。

Sāmīciは、経験を受け取りながら,という意味。
つまり、Sāmīcipaṭipannoは,慈悲の瞑想などにより、良い影響を受けながら、良い影響を経験しながら、道に入っている人という意味。

Yadidaṃは,たとえば。
cattāriは,四つ。
purisaは、人。
yugāniは、組。二人の組。

aṭṭhapurisaは八人。
puggalāは人。
Esaは,この。
ということを,それぞれ意味します。

預流果(よるか)・預流向(よるこう),一来果(いちらいか)・一来向(いちらいこう),不還果(ふげんか)・不還向(ふげんこう),阿羅漢果(あらかんか)・阿羅漢向(あらかんこう)の、悟りの四つの段階とそれに向かっている人の、四双八輩のことです。

Āhuneyyoは,遠くから行って、持ってくるものを受けるべきもの、存在。
Pāhuneyyoは,客として受け取って,尊敬されるに値すること.
Āhuneyyoはこちらから行って御布施をするのに値し、Pāhuneyyoは来てもらった時に御布施するのに値する、という意味です.

Dakkhiṇeyyoは,与えるべきである存在。

Añjali karaṇīyoは,礼拝するべき存在。

Anuttaraṃは無上。
puññakkhettaṃは、福徳の田んぼ。福田。
lokassā tiは人々の。
つまり、Saṅghaは人々にとって功徳を得るための田んぼのようなものであるということです。

人が仏法僧に近づくためには功徳が必要です。
この仏法僧のうち、人が簡単に近づくことができるのは僧=サンガ(Saṅgha)です。
仏と法は功徳が無いと,近づくのはなかなか難しいといわれます。

Saṅghaがあるということは、功徳を得る田んぼがあるということです。
少ない米で、多くの収穫があるようだというたとえがなされます。
困っている時に、人々が容易に近づくことができるのもSaṅghaです。
Saṅghaを通して,人は仏と法を教えてもらい、仏と法に近づくことができます。





3、「ダンマパダ」 第21〜24偈 解説


「ダンマパダ」 第2章 「不放逸の章」

 第21偈
 不放逸は不死の境地であり、放逸は死の境地である。
 不放逸の人々は死なない、放逸の人々は死せる如くである。

 第22偈
 不放逸におけるこの特質を自覚して、賢者達は
 不放逸を喜び、聖なる行境を楽しんでいる。

 第23偈
 彼らは常に堅忍不抜で奮励努力の禅定者たちである。
 賢者たちは、無上の涅槃、束縛からの安穏を体験する。

 第24偈
 奮起し、念を保ち、行い清く、注意深く行動し、
  自制あり、正しく生活し、不放逸である人の福徳は増大する。

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhp-reading-1.html


不放逸(appamado, appamatta)という言葉の中には、努力・勤勉・精励・入念という意味もあります。

一方、放逸(pamado, pamatta)とは、だるさ、怠惰ということも含めて意味しています。

誰かの生活の中に、放逸があれば、悪い方向に導かれてしまいます。
一方、不放逸があれば、悪い方向にはならないのです。

放逸は、1、人生が悪くなる
    2、死後も悪くなる

不放逸は、1、人生・生活も良くなる
     2、死後も善い所に赴くし、善い名前もこの世にのこっていく

放逸であると失敗します。
不放逸・入念であると成功します。

人間は、往々にして、放逸を楽しんでしまいますが、その場合は失敗してしまいます。
入念・不放逸を楽しめるか、喜びをもってそうした状態になれるかどうかというのは、長い目で人生を見れるかどうかによります。
長い目で人生を見ることができる人は、入念・不放逸を喜び楽しみます。

心には、放逸・怠惰・だるさという特徴がもともとあります。

ですので、放逸という壁を破れば、破る力があれば、人生は良い方向に向かいます。
「放逸の壁を破る」ことがとても大事です。
放逸は人間の心の中の弱点、心の中の弱いところなので、不放逸によって放逸の壁を破ることの大切さを仏教は意識的に説きます。

ことわざに、「農家が農業を好きになれば神にもなれる」というものがあります。
自分の仕事に精励し、怠け心に打ち克てば、どのような仕事でも、どのような生活でも、心はかなりのレベルに達するということです。

ちなみに、第24偈は、私(デニヤーイェ長老)の最も好きな偈です。


Q,同じ「賢者」と翻訳されている言葉が、22偈では”pandita”、23偈では”dhira”となっておりますが、この二つのパーリ語の違いは何でしょうか?

A,panditaは、知識ある人、学者という意味です。dhiraは、知識と不放逸を併せ持つ人です。ですので、panditaの中には、知識だけあって智慧や不放逸のない学者が中にはいるかもしれませんが、dhiraは知識も智慧・不放逸もある人ということですね。


Q,努力や精励の大切さという御話を聞くときにしばしば疑問になることがあります。
日本においては、しばしば過労死という現象があり、働きすぎのために自分自身が体を壊して早死にしたり、あるいは自殺してしまう場合が時折あります。
そこまでいかなくても、仕事のために家族を顧みず家庭が崩壊したり、そこまでいかなくてもあくせく働いて人生を楽しむ暇もないような話は、戦後の日本にはよくある事例のように言われ、欧米のように人生を楽しむ余裕が大事ではないかということがしばしば言われます。
 放逸・不放逸の御話と、このような事例とを、どのように考えればいいのでしょうか?


A,不放逸とは、自分の目標に関係して言われることです。
さらに、自分の心の中の状態についてのことです。

働かされているという意識ではなくて、自ら働くという意識に関わることが、不放逸ということです。

自分の心の中の怠惰な気持ちは、悪い影響を与えます。
この悪い影響を防ぎ、打ち克つことが、不放逸ということです。
働くことと余裕との関係とは、また別の視点から言われていることですね。

心の観点と、目標・目的。
これが不放逸・放逸に関して論じる時に、最も大事なことです。

同じく働いているように見えても、一方ははっきりとした目的があり、自ら進んで精励していれば、いくら働いてもあんまり疲れを感じないということがありますね。
逆に、嫌々ながら、目的もよくわからなくて無理して働けば、とても疲れを感じるということがあります。
また、とても働いているように見えても、肝心のことに気づかず、不注意によって自他に被害をもたらすような出来事を起こしてしまえば、それは放逸です。

この観点から考えてみることも参考になるのではないでしょうか。

(以上)

(文責・あつし)
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2010年05月26日

5月23日 勉強会

5月23日の勉強会は、デニヤーイェ長老が御講師でした。
大雨にもかかわらず、常連メンバーだけでなく新規参加の方まで来てくださり、和気あいあいとした楽しい勉強会となりました。

午前中は、出入息の瞑想や、慈悲の瞑想、歩き瞑想。

午後は、「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)についての講義と、ダンマパダの第15〜20偈を勉強しました。

昼休みには、みんなそれぞれに食べ物やお菓子を持ち寄って、楽しいひとときを過ごしました。

勉強会の会場の少童神社には大きな楠木があるのですが、雨にもかかわらず鶯がやってきて、美しい声で鳴いていました。
昔の人の中には鶯の音色を「法を聴け、法を聴け」と聴いた人もいたそうです。
いつものことながら、デニヤーイェ長老の仏法についての解説は本当に目からウロコのことばかり。
あらためて、もっと瞑想をがんばり、仏教を勉強したいと思う一日でした。


【勉強会の内容】

※ A,「法の六徳」(ダンマ・ワンダナー)について

参照
http://www.j-theravada.net/sutta/butsu-hou-toku.html


ダンマ・ワンダナー dhamma vandanā

ワンダナーとは、礼拝するという意味。
ダンマの特徴を思い出して礼拝するのが、ダンマ・ワンダナー。


1、 スワッカートー・バガワター・ダンモー svākkhāto bhagavatā dhammo
(善く、正しく説き示された教え)

バガワターは、世尊によって、
ダンモーは、ダンマ、法は、
という意味。

スワッカートー(svākkhāto)は、

su + akkhāto 

で、suは、正しく、うまく、よく、とい意味。
Akkhātoは、説かれた、説かれている。
という意味。

仏教の特徴として、最初も正しく、真ん中も正しく、最後も正しく説かれる、という特徴があります。
説法する時に、お釈迦様は常に、悟りという目的のために、貪瞋痴から離れる教えを説いたということです。

Suがつく言葉では、たとえば他に、スジャータ(sujāta)、つまり良く生れた、という意味の名前の、有名な方もいますね。
Suがつくと、善いという意味です。


2、 サンディッティコー sandiṭṭhiko
(実証できる教え)

実証できる、体験できる、といった意味です。

Sandiṭṭhikoという言葉をもっと詳しく見るならば、

saṃ (うまく) + diṭṭhiko (見る)

という言葉からできています。

つまり、

1、 うまく見ることができる
2、 秘密が無い、誰でも実際に見ることができる

という意味です。

お釈迦様の生きていた時代、多くの宗教の師は、自分の知っていることの一部分は弟子に教えないという風習がありました。
なぜならば、教えてしまうと弟子と自分が対等になってしまうという恐れがあり、自らの権威や利益のためにも秘密を保っておくということがあったからです。
しかし、お釈迦様は何の秘密もなく、すべて教える、という教え方をしたので、当時とても画期的でインパクトがありました。


3、 アカーリコー akāliko
(普遍性があり、永遠の教え)

a は 否定の意味。
Kālikoはさらに、kāla と ika に分けることのできる言葉で、
Kāla は 時間の意味。 
Ikaは、英語でいうと、副詞につく”~ly”みたいな言葉です。

つまり、akāliko
= untimely

ということになります。

時間によって左右されない、どれだけ時が経っても変わらない教え、真理であるということです。

大乗仏教には五時教判(注1)や末法思想(注2)という考え方がありますが、テーラーワーダ仏教においては、基本的にはそうしたことは説かれず、ダンマのレベルは下がらないと説かれています。
ただし、時代によって瞑想に興味を持つ人が多くなったり少なくなったりするということは言われますが、ダンマはどれだけ時が経っても常に有効であり普遍的な真理だと説かれています。

(注1) 天台宗などで言われるもので、釈尊は悟って後に、最初は華厳経の教えを説いたが、よく理解するものがなかったために、方便として阿含経の教えを説き、ついで方等経典、般若経典、最後に法華経と涅槃経が説かれたとし、法華経が最高の教えだとする経典整理の仕方。
(注2) 釈尊が教えを説き始めて千年間(あるいは五百年間)を正法、次の千年間を像法、その後の一万年間を末法、そののちは仏法が滅びるとする歴史観。正法の時代と比べて、徐々に人間の機根が劣っていくという下降史観である。


4、 エーヒパッシコー ehipassiko
(「来たれ見よ」と言える確かな教え)

来て見て、と見せることができる教えということです。

Ehi 来て
Passa 見て

他の宗教は、一般的に、信じてください、ということを言います。
しかし、仏教は、信じるものではなく、確かめてください、来て確かめてみてください、と言います。

たとえば、タイでは、よく在家の方が一時的に出家して、寺院で仏教の生活を体験します。
そのために、とても在家の人とお寺の関係が深く、親しいそうです。
実際に仏教を体験する機会が多くあることは良いことですね。

もっと言うならば、仏教においては、最初のうちは戒律はありませんでした。
お釈迦様は、35歳で悟りを開いてから55歳までの二十年間、一日に二時間しか睡眠をとることなく、教えを説き続けました。
その努力で、それまでバラモン教の国だったインドが、仏教の国になりました。
55歳になった時に、弟子の数も増え、問題を起こす者もでてきたので、戒をつくることになりましたが、それまでは、どういう目的で出家したかを思い出すお経をみんなで唱えることの他には、これといった戒めはありませんでした。
実際にサンガで生活することが、まずは重視されていたのです。


5、 オーパナイコー opanayiko
(実践者を涅槃に導く教え)

opanayikoは、

upa (まで) + naya (行かせる、持っていく) + ika

で、つまり解脱まで導かせる教え、ということです。


6、 パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー paccattaṃ veditabbo viññūhī
(賢者たちによって各自で悟られるべき教え)

paccattaṃ  個人的に
vedhitabbo 知るべきである 
viññūhī  賢者、賢い人

お釈迦様は、悟りまでの道をきちんと説明することができるし、心をパワーアップする方法を教えることはできますが、誰かを悟らせることはできないし、誰かの心をパワーアップすることもできない、努力するのは自分自身ですよ、ということです。

馬を水のところに連れて行くことはできるけれども、水を飲ませることはできない、ということはよく言われますね。

仏教は、悟るまでの道をきちんと説明してくれていますが、各自、自分自身が、それぞれ個人的に、実際に自分で修行して努力して、その成果を自分自身で得るしかないという教えです。


最後の偈文

jīvita pariyantaṃ saraṇaṃ gacchāmi
(私は生涯帰依します)

この箇所は、

jīvitam yāva nibbānan saraṇaṃ gacchāmi
(私は悟りに達するまで帰依します)

という表現も使います。

先の方の文章で、jīvitaは人生、pariyantaṃは最後まで、という意味なのですが、このjīvitaを悟りに達するまでの輪廻の人生すべてと解釈するならばいいのですが、ただこれだけだと、今の人生は仏法僧に帰依しても、次の人生はどうなるの?ということにもなりかねません。
後の文章の方が、正確にわかりやすいかもしれませんね。

悟りに達するまで、仏法僧に、この人生、および輪廻の中のどの人生も、ずっと帰依しますということが仏教においては正しいあり方です。


※ B、「ダンマパダ」 第十五〜二十偈 解説

参照
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf


第十五偈
「ここに悩む、あとで(死後にも)悩む、悪をなすものは両方で悩む、
自分の汚れた行為を見て、彼は精神的にも、肉体的にも悩む。」

この偈は、もともとは、マガダ国のアジャータサットゥ王子について言われたものでした。
父のビンビサーラ王を死に追いやり、苦しむアジャータサットゥ(アジャセ)王子について述べられたものです。

Socatiとvihaññatiは、前者が精神的な苦しみで、後者は肉体的な苦しみということです。


第十六偈
「ここで喜ぶ、あとで(死後も)喜ぶ、善をなした人は両方で喜ぶ、
自分の清らかな行為を見て、彼は喜び、喜び満足する。」

この偈は、ダンミカというある在家の信者について述べられたものです。
彼は、お釈迦様の教えを聴き、きちんとした生活を送っていました。
心を清くするという目的をしっかり持って生きていました。
年をとっても悩みなく過ごしていました。

たまたまお坊さんたちがやってきた時に、読経してもらっていたら、ダンミカのところに神々がやってきたのが、ダンミカにのみ見えました。
神々は、ダンミカが多くの功徳を積んだ人なので、死後は自分たちの住む神々の国にやって来てくれるようにダンミカに言いにきたのですが、ダンミカは神々がお経を聴くことの邪魔になるので、「やめなさい」と言いました。
読経をしていたお坊さんたちはびっくりして、自分たちに言われたものと思い、お釈迦様のところに戻ってその顛末を話すと、お釈迦様は、あなたたちに言ったのではなく、こういうわけでダンミカは神々に言ったのだよ、と説き明かし、この偈をおっしゃいました。


第十七偈

「ここで悩み、あとで(死後にも)悩み、悪をなすものは両方で悩む。
“私は悪いことをした”と、悪趣に行ってさらに多く悩む。」

刑務所の人などは、犯罪を犯した時には悪いことをやっているという思いも自覚もなくても、あとから自覚ができてくると、このような気持ちでしょうね。

悪をなした人は、あとでその結果を受けます。

ただし、悪い結果から、ある程度人間は離れることもできます。

人間は、どうしても間違いは起こります。

しかし、仏教では、後悔することも悪いと説きます。
後悔をすると、前向きに動けなくなります。

もし、その行為をした時は悪とわからなくても、あとでわかったのならば、後悔はしないで、

1、 未来は二度とその行為をしない。もう一回やらないことを選択する。
2、 その悪かった行為の反対の、良い行為を行う。

という二つのことを心がけ、実行すべきです。

たとえば、親に口答えをして反抗し、あとで悪かったと思ったら、もう一回はやらないことを選択し、できるだけ親を喜ばせることを行っていくことです。

人生は、前向きにいくしかありません。
そのためには、

・ 後悔しない。
・ 悪かった行為の反対の良い行為をする

の二つが大事です。


第十八偈 

「ここで喜び、あとで(死後に)喜び、善をなした人は両方で喜ぶ。
“私は善を行った”と喜び、善趣に行ってさらに多く喜ぶ。」

この第十七、十八偈の善趣と悪趣というのは、アビンダマで言えば、善趣は天・人間であり、悪趣は地獄・餓鬼・畜生といったことになりますが、必ずしもそれだけに限らず、今よりも良い所と、今よりも悪い所、と理解すれば良いです。

同じ人間界でも、今よりも悪い境遇になれば悪趣に行ったということですし、今よりも善い境遇になれば善趣に行ったということです。
自分の行為で、悪趣ではなく、善趣に行くように心がけねばなりません。

ちなみに、ここで喜びを意味することばは、nanda(ナンダ)で、お釈迦様の弟子のアーナンダは喜びを与える人という意味の名前、お釈迦様の弟のナンダはこのナンダで喜びという意味の名前です。


第十九偈

「もし文献に関してたくさん話しても、実践する人にならないで、放逸な人であれば、
牛のお世話をする人が他人の持ち物の牛の数を数えるようなもので、沙門性の結果(仏教修行者の分け前、解脱)を得ることはない。」

これは、お釈迦様が出家者に対して述べた偈です。

たくさん知識があったり、本を読んでいても、実践しなければ意味が無いというのが仏教の教えです。
仏教は、実践の教えです。


第二十偈

「もしも少なく文献(教え)について語っても、ダンマをダンマに従って実践して、
貪瞋痴を捨てて、正知があり、よく清くした心があり、
ここに(今生に)、また後世に執着がないならば、彼は沙門性の結果(解脱)を得る人です。」

これは、出家者の特徴を述べています。
ダンマを実践し、貪瞋痴を離れ、良いサティ(正知)を持っている、
今世と来世を強く執着することなく、沙門性の結果を得る。
これが本当の出家者の特徴です。

本当の仏陀の教えかどうか、各自が自分で確認する方法があります。
その確認する方法とは、その教えが、貪瞋痴を減らせる教えかどうか、ということです。
仏教は、貪瞋痴を減らす道を教えるものです。
増える道だったら、仏教ではないということです。


※ C,瞑想について

(出入息の瞑想について)

息をする時に、鼻の感覚に集中してください。

(慈悲の瞑想について)

「生きとしいけるものが幸せでありますように」という一文が、慈悲の瞑想の鍵となる一文です。
この一文の中に、他の慈悲の瞑想のフレーズのすべても入っています。
もっと細かく実践したい人は、慈のみでなく、悲・喜・捨を育てるフレーズや、対象も私・私の親しい人々や、さらに詳しくいろんな形で念じても良いです。
しかし、他の悲・喜・捨を育てるフレーズや、私・私の親しい人々、といったすべての事柄は、この「生きとし生けるものが幸せでありますように」という一文には含まれています。

慈悲の瞑想を行うと、その瞑想の対象の人が幸せに変わるかどうかというと、必ずしもそうなるわけではありませんね。
しかし、慈悲の瞑想を行えば、その瞑想を行う人の自分自身の感覚には、変化がすぐに現われます。
相手に対する感覚や気持ちが変わるのです。

慈悲の瞑想を行うと、
自分の見方が変わってきますし、
自分が変化を獲得します。

慈悲の瞑想に慣れると、怒りたくなくなってきます。
怒るというものが心の中にあるから、人は怒るものが外にあったときに、怒るものとして見えてきます。
しかし、自分の心の内側に怒るというものがなければ、怒るものが外にあっても、怒るものに見えてこずに、その物事がよく観察できるようになります。
これが、慈悲の瞑想の大きな結果です。

慈悲の心を育てることが、人間としての価値ですし、良いところに生まれ変わる自信も生じてきます。
食べ物などの幸せは一時的なものですが、慈悲の幸せはずーっと続きます。


(瞑想全般について)

人は考えることに慣れていますし、かつ、世の中から常に考えるようにさせられています。
ですので、思考を止めること、つまり瞑想というものはけっこう難しいのです。

しかし、お釈迦様は、こんなたとえ話をされています。
赤ちゃんが、歩けるようになるために、何度も、ちょっと立ち上がって歩こうとして、また横になって休んで、また歩こうとして、繰り返し行います。
人が瞑想に慣れるのも、このようなものです。

瞑想も、毎日行い、心、身体、行為が瞑想になれることが大事です。
毎日、十五分ずつでも、瞑想を実践してください。

瞑想において、四つの邪魔(マーラ)があるといいます。
体の痛み、妄想、外からの音・邪魔、眠気、の四つです。
この四つに負けぬように、瞑想に慣れるまで努力してください。


【デニヤーイェ長老とのQ&A】

Q,(あつしの質問)

よく、成功哲学などで、積極的な思考を持っていると成功しやすくなる、ありありと良いイメージを思い描いて、明るい心を持つと人生はうまくいく、ということが述べられているのですが、仏教の観点から言えば、こうした意見はどうなのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

体には、心の状態の結果がすぐに現われるので、明るい心を持っていると、表情が明るくなって、元気で、その結果として物事がうまくいくということはありますね。
ですから、明るい心を持つことは、仏教でもとても大事にします。

しかし、何をもって明るいとするか、明るさの定義が、文化や社会によって違います。
たとえば、ある文化や社会では、物質的な生活を楽しみ、物質を享受するのが、明るいとされているかもしれません。
しかし、それはずっと続くものではなく、変化していくものです。
ですので、バランスが大事で、明るい心と、無常を観察する智慧などのバランスが大切なことです。

ただ、お釈迦様の時代に、こんな御話があります。
ダイバダッタが、お釈迦様に対して、もっと戒律を厳しくするように要請したことがありました。
しかし、お釈迦様は、悟るという目的に関係ないところで、むやみに厳しい戒律をつくることはしませんでした。
目的に関係ないところでがんじがらめになって陰鬱になるようなことはせずに、明るくのびのびと行うのが仏教であるということは言えるかもしれません。


Q,(Kさんの質問)
慈悲の瞑想の時に、イメージをふくらませて唱える方が良いのでしょうか?
それとも、ことばだけを追って唱える方が良いのでしょうか?

A,(デニヤーイェ長老の御答え)

どちらも良いことで、最初にイメージを持ち、徐々にことばで念じるようになっていけばいいです。
イメージを持つこともとても良いことです。

しかし、「私の嫌いな人々が幸せでありますように」や「私を嫌っている人々が幸せでありますように」というフレーズは、具体的にイメージを膨らませてしまうと、怒りが自分の心に生じてしまうかもしれません。
怒りは慈悲の反対で、かえってよくない結果を生じてしまいます。
ですから、この二つの対象を念じる時は、イメージをふくらませず、言葉だけによって唱えるようにしてください。



Q,(Sさんの質問)

仏典を読んでいたら、悟った人にはなんの願いも希望もない、ということが書かれた文章があったのですが、悟りは願うことではないのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

悟りは自分の内側で発見するものであり、自分以外の何か神や仏陀などが上から与えるものではありません。
願ってお祈りしたら、上から与えられるというようなものではありません。
ですので、悟りは願うというよりも、ダンマを実践して、発見するもの、ということです。


Q,(あつしの質問)

大乗仏教では、よく菩提心ということが言われていて、仏になることを願うことが大事だと強調される場合があるのですが、テーラワーダ仏教ではどうなのでしょうか?


A,(デニヤーイェ長老の御答え)

テーラワーダ仏教では、仏(=ブッダのこと)・辟支仏(びゃくしぶつ=師なくして独自にさとりを開いた人)・阿羅漢(=元々は「尊敬されるべき修行者」の意)・菩薩(=元々は「悟りを開く前の修行時代の仏陀」の意)の順番でした。

しかし、大乗仏教では、辟支仏と阿羅漢は自分だけの悟りを求めて利他を求めない者であり、利他を求める菩薩の方が格上であるという位置づけがされるようになり、仏・菩薩・辟支仏(=縁覚)・阿羅漢(=声聞)という順番になり、菩薩が仏をめざす者として二番目に来た、ということになりました。

ただし、テーラワーダ仏教においても、誰でも仏や阿羅漢になる可能性はないわけではないので、菩提心を起こす(仏になることを願う)ということが間違いだというわけではありません。

しかし、通常の場合、いきなり仏や阿羅漢を目指すということよりも、まずは地道に心を清くすることを目的にした方がいいかもしれませんね。

(以上)

(文責・あつし)
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